どんなことでもいつしかあなたの微笑みに変わればいい

 まだ小さかった頃のことだ。夜眠れなくなるからと止める母親を無視して昼寝を敢行した結果、夜ベッドに入ってもちっとも眠くならずに、目を閉じたままとりとめもないことを考えていたことがあった。ただじっと目を閉じているだけではほかにすることもなく、しているのは呼吸だけ。わずかに上下する自分の胸と鼻から漏れるかすかな音に、なんだか息をするのが面倒だ、とふいに思った。
 吸って、吐いて、また吸って。どっちつかずなところがまた苛立ちを誘う。いっそ吸うか吐くかどちらかだけでいいのならもっと楽なのに。試してはみたもののすぐに苦しくなって、それなら完全に止めるほうがいいのかとそうしてみたけれど、やっぱり苦しさに耐えられず、鼻のあたりまで被っていた毛布から顔を出して新鮮な空気を思い切り吸い込んだ。息をするのは生きているから。生きていくためには息をしなければならない。日常では意識することなくごく自然に行われる、生きていくのに絶対不可欠な行為。自分の意志で止めることだってできるそんなものに自分の生死がかかっているなんて、人間なんて結構適当な作りをしているんだなあとぼんやり考える一方で、そういえばこれは違うな、と胸に手を当てた。
 感じるのは心臓の鼓動。動かすのには自分の意志なんて必要ない。息を止めたら止まるのかと思ってもう一度止めてみたけれど、どれだけ待っても鼓動は止まることはなかった。安心感と、それからわずかな失望。自分の思う通りに動かせないものへの。自分の思い通りには、ならないものへの。


 何か探しているのかとよく聞かれるようになった。そうとは知らずにに、やたらと周囲を見回したりすることが多くなったのだそうだ。自分ではよくわからなかった。そういえば何度かジローや長太郎にも言われた気もする。そうすることを止めたいと思っても止められないのだ。何故ならそこには自分の意志なんか関わっていないから。きっと俺の身体が、俺の眼が、勝手にそうするのだろう。いつ行われているのかわからないものを俺に止めることはできない。


 制服は中間服から冬服へと変わった。季節は当たり前のように変わっていく。変わってしまったものも、…失ってしまったものも、それによってできた何かひずみのようなものも、やわらい空気に包まれて溶け、薄められて、やがて元通りの姿に戻っていくのだ。世界はそんなに優しいものなんかじゃない。この世界も、例えば俺の世界も。誰かをひとり失ったくらいじゃ、何も変わるものなどないのだ。


(でもおれはお前に会いたい)

 

――会いたくて、苦しい。
 ああジロー今なら、あのとき泣けないままそう言ったお前の気持ちが、嫌というほどわかるよ。
 もしも最期に、躊躇わずに、お前の気持ちを聞かせてほしいと言えていたなら。彼の言葉として彼の声でそれを聞いていたなら、この息苦しさは何か他のものになったんだろうか。


 会いたい。
 会いたい会いたい会いたい。会いたい。何度言っても足りない。何度繰り返しても足りない。会いたい。
 この苦しさは、息を止めることができない苦しさに少し似ている。心臓の音を止められなかったもどかしさにも少し似ている。こんなに苦しい目にあうなんて全部てめえのせいだ、馬鹿。何てことしてくれたんだよ。お前があのとき戻ってきたりしなかったら。俺を選ばなかったら。俺に、自分の気持ちに気づかせるようなことをしなかったら。でも。


(それでもどうしても、俺はお前が好きだった)
 それだけは、どんなに時間が経とうと変わらない事実だった。


 自分の身体を強く抱きしめる。この中に、彼がいた。置いていってくれた、言葉にできない気持ちも全部。きっとこれからも俺は自分の身体を抱きしめて、彼に会いたいと思うだろう。苦しくて苦しくて、叶わないことは分かっていて、それでも会いたいと何度も思うだろう。けれど、もしお前がこの世界ではなくてもどこか別の場所で、あのときみたいに。俺の心とお前の心が一緒になって、ひとつになったみたい気がしたあのときのように。
 俺と同じように俺に会いたいと思っているのだとしたら。


(俺は生きていけるよ)
 この気持ちを抱えたままでも。

 






「りょーちゃーん?」
 ジローが廊下側の窓から身を乗り出して手を振る。笑顔だ。
「早く帰ろ?みんな待ってるよ」
「おう、今いく!」


 その日初めて、俺たちの街に雪が降った。

 

 

|| top ||