宍戸は呆然と、跡部の横顔を見つめていた。

「宍戸!大丈夫か!?」
 跡部に突き飛ばされるようにして群衆の中に突っ込んだ宍戸は、南に背を支えられてゆっくりと半身を起こした。
(そんな、馬鹿なこと……)
 宍戸は大きく裂けた自分の右腕を左手で強く押さえた。跡部が飛び込んでこなかったら、間違いなくこの腕は身体から切り離されていたことだろう。
(あいつ、……騎士よりも速く動きやがった)
 傷口からあふれる血が、押さえる左手の隙間から流れ落ちて地面に染みを作った。
 いくら騎士に匹敵する戦闘能力を持つとはいえ、所詮ファティマはファティマだ。跡部は自分を、工場で作られた大量生産品だと言った。そうであるなら尚更、騎士を――しかも恐らく相当の強さを持つこの手塚を相手に、こんな芸当ができるはずはない。
(跡部……?)
「驚いたな」
 剣を真っ直ぐ跡部に向け、手塚は静かに言った。手塚の攻撃を正面から受けその場に倒れこんでいた跡部は、身体を起こして立ち上がった。身体には傷一つできていない。
「だが騎士よりも強いファティマというのは、本来いてはならないはずだ」
「……」
 跡部は俯いたまま、じっと黙っている。
「不本意ではあるが、これ以上の違反を見逃すわけにはいかない」
「……」
「規律は、守られなければならない。……ここで死んでもらおう」

(跡部、逃げろ!)
 血で滑る右手で剣を取り、宍戸が立ち上がろうとしたときだった。

 

「騎士よ」
「……?」
「俺をお連れください。……”マスター”」
 両手を胸の辺りに組み目を閉じて一礼すると、跡部は手塚に向かって、そう告げた。

 

(跡部!?)

 宍戸は自分の身体が冷たくなるのを感じた。その言葉。ファティマが己の選んだ騎士を主とするための言葉、壊れて口にすることができないといったその言葉を、今まさに彼が告げたのだ。それも、自分にではなく。
 右手に持った剣が滑り落ち、カランと音を立てた。

「どういうことだ」
「……」
「さきほどの男を庇うつもりか」
「……」
 何も答えない跡部に、手塚は息をついた。
「残念だが、俺はまだお前たちの魔性に捕まる気はない」
 ここは見逃すから他を当たれ、と身を翻そうとしたとき、跡部がゆっくりと顔を上げた。
(目の…色が……)
 その横顔に、宍戸は息を飲む。
 透明な青だったその瞳が、今は禍々しい赤に変わっていた。
 

 

 

「我が名は――”景”」

 

 跡部の言葉に、群衆のどよめきの声が上がる。わけがわからずに宍戸が振り返ると、すぐ後ろにいた南が驚いた表情で呟くように言った。
「……前話しただろ、あのMHの専属ファティマの名だ」
「あのMH……?」
 もう一度、正面の跡部に視線を戻す。不敵な表情は見覚えのあるものだったが、宍戸がよく知る跡部のものとはどこか違っているように思われた。

 

「我と我が黒きMHが求めるはただひとり」
 凛とした声が、響き渡った。

「黒騎士」

 

 

 

「なるほど、その名……その”銘”か」
 手塚はしばらく、目の前のファティマを見つめていた。
「ではお前が俺のものになれば、しばらくは無駄な争いも起こらないということか」
 跡部は何も答えずに、ただじっと手塚の答えを待つ。
「……いいだろう。ついて来い」
 それだけ言って剣を収めると、手塚は踵を返し、固唾をのんで見守る群衆の間を通り抜けていった。
「イエス、マスター」
 にやりといつものように笑ってマントを翻し、歩き出した手塚の後を追って、一度も振り返ることなく跡部は去っていった。

 

 

 

 

 

 

「あんたもえらい怪我しとるやん。大丈夫か?」

 ふいにかけられた声に、はっと我に返った宍戸は顔を上げた。立っていたのは人の良さそうな笑顔を湛えた、黒髪の男だった。
「忍足!」
 宍戸の後ろに立ちつくしていた南が男に声をかける。久しぶりやなあ、と南の肩を軽く叩いてから、男は座り込んだままの宍戸の前にしゃがみ込んだ。
「……あんたには関係ねーだろ」
「まあまあ。俺は忍足。南の知り合いやねん。以後よろしくなー」
 に、と笑って、それから忍足はふと、真剣な表情で手塚と跡部が去っていった方向に視線を向けた。
「さっきのファティマなあ、自分の意志でお前を守ったやろ。自分の意思だけでは何もできんファティマがやで」
「……」
「あの瞬間だけ、あの子はお前のもんやったんや」
「……」
 宍戸は唇を噛みしめた。
――宍戸。
(跡部……)
――今度”俺”に会うことがあったら。
(……)
「あのファティマはすっかり”直って”もーたみたいやけどな、取り返そうとか考えんほうがええで」
「ああ?」
「さっきの騎士な。手塚言うて、星団内でも名の通った最強騎士のひとりや。有名人やで。知らんかったんか?」
「……知るかよ、そんなこと」
「何も知らんと勝負ふっかけたんか?無謀やなあ」
「うるせえ」
「ま、そういう子がおらんとおもろないけどな。ああ、南、千石呼んでくれへん?この子の腕の傷塞いでやらんと」
「捕まるかわからないけどな。あの放蕩マイトめ……」
 ぶつぶつ文句を言いながら、待ってろ、と言い残して南は走り去っていった。

「鳳、こっちや!」
 忍足が手を上げて大きく振ると、人ごみの中から白いマントを身に纏った長身の男が現れた。広場を後にしようとする人の流れに逆らいながら近づいてくると、忍足と宍戸に向かって深く頭を下げた。
「こいつ俺のファティマな」
「初めまして。鳳といいます」
 にっこりと笑う。邪気のないその笑顔に、また今までに見たことのなかったタイプのファティマだと思いながら宍戸がおうと返事を返すと、鳳は忍足を振り返った。
「マスター、どうしましょう」
「ああ、とりあえず何か応急処置とかしたって。後で南が千石連れてくるはずやから」
「本当ですか!」
「お前も後で見てもらおうな。お前作ってくれた奴やしな」
「はい!」

 てきぱきと手当てを始める鳳を宍戸が無言で眺めていると、忍足は首を傾げるようにしてその顔を覗き込んだ。
「お前、自分のファティマ持ったことはないんか?」
「……あいつが、初めて見たファティマだったんだよ」
 ぽつりと言った宍戸に、忍足はため息をついてそうか、と言った。
「初めて見たものが、この世で最高のモンやったわけやな」
「?」
「俺も同じや」
 そう言ってもう一度、深くため息をつく。
「……あんたもあいつを知ってんのか」
「まあなあ。今はもう、なーんも覚えてへんのやろうけどな」
 腕を組んで、何かを思い出すようにそう言った忍足に、宍戸はフ、と笑った。
「で、お前は諦めたってわけ?」
「……諦めたていうか…」
 歯切れの悪い忍足に宍戸がまた笑うと、宍戸の腕に丁寧に包帯を巻いていた鳳が手を止めて、不安げに忍足を振り返った。
「マスター……?」
 その表情に、忍足は慌てて手を振る。
「あー、ちゃうちゃう!別に俺は、お前で妥協したとかそういうわけやないで!お前が俺を選んでくれて、俺もお前がええなって思たからお前をパートナーにしたんやからな!」
「はい……」
 安心したように頷いた鳳に、忍足は胸を撫で下ろすようにしてから宍戸の頭を小突いた。
「不用意なこと言わんといてな。こいつはよう泣くねんから」
「知るかよ」
「で、お前はどうする気なん?」

 どうする気、だって?
 そんなの、決まってる。

 宍戸は包帯の巻かれた腕を押さえた。命令しろ、と言い残した跡部。
――この運命を、お前の手で終わらせてくれ。
(そんなことしてたまるかよ)
 彼は自分を羨ましいと言った。自分で生き方を決められる自分を。彼の―彼らの生き方を変えることなど自分にはできるはずもないし、彼らにとっての幸福が何であるのかなんてわからないけれど。

 ふいにはらりと目の前に落ちたものに、忍足は目を見開いた。
「わ、何してんの!?」
 宍戸の持った剣の先から、次々と長い黒髪がこぼれ落ちていく。
 すっかり切り落とすとその髪を風に流して、宍戸は真っ直ぐに忍足を見上げた。
「どうするかなんて決まってんだろ」
「……」
「どこまでも追っかけてってやるよ」
「どこまでも?」
 宍戸は強く頷いた。

(まだ、俺にはお前と見たい世界があるんだ)
 見せたいものも。話したいことも。探したいものも。見つけたいものも。
 一緒に。

「俺を”マスター”って呼ばせてやる」
 宍戸がにやりと笑ってそう言うと、忍足も少し笑って頷いた。
「まあ、そう言うてくれんとこっちも助け甲斐ないしな」
「どういう意味だよ」
「俺は面白いことには労力を惜しまんタイプやねん。全面的に協力したるわ。……手塚は強いで?」
「分かってるよ。そうでなきゃ面白くねえだろ」
 宍戸は立ち上がった。迷いは何もない。相手が強いというなら、自分も強くなるだけだ。
「ほなら、腕が治ったら早速特訓な。俺も一応、天才とか言われとる騎士やねんで?相手するし。この鳳も好きに使ってくれてええから。な?」
「はい。お手伝いします!」
 宍戸はふたりを見上げ、そして笑った。


 

 

 風が吹いた。
 数十年に一度、驚異と畏怖とを持ってこの街の人々に迎えられるその風は、今また砂埃の彼方へ消えていった。
(待ってろよ)
 宍戸は空を見上げた。
 彼の澄んだ瞳と同じ色だった。
(いつか、きっと)

 

 空の片隅に浮かんだ真昼の白い月が、ただ静かにそんな彼らを見下ろしていた。


 

E N D

 

 

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