神 様 も 知 ら な い 午 後

 

 顔だけは知ってた。そいつはおれが通うテニススクールに少し前に入ったコーチで、おれは直接教えてもらったことはなかったけど、なかなか上手いんだってみんな言ってたから。開いた時間にほかのコーチとちょっとだけ打ち合ってるのを見たことあるくらいで、でもそれだけ。あ、でも、初めてスクールにきたときに、おれの顔見てすごくびっくりしたみたいだったのは覚えてる。何に驚いたんだよ。失礼な奴。
 だから、その日いきなり声をかけられたときは、何なんだ、って思った。

 

 

「なあお前、名前何て言うんだ?」
 おれよりだいぶ身長が高いそいつは、ちょっとしゃがむみたいな感じでおれに目線をあわせて、いきなり聞いてきた。
 午前中のレッスンが終わったところで、おれは母さんと待ち合わせて昼飯を食べにいくことになっていて(ちょっと恥ずかしいけど美味い店に連れてってくれるって言ったから仕方なく、だ)、電話がかかってくるのを待ってたとこだった。だから、そいつがじっとおれのほう見てるのなんて気がつかなくて、顔を上げたらそいつがいきなりそこにいたからちょっとびっくりした。
 切れ長の、一重の目。黙ってると怖そうなのにそいつはにこにこ笑ってて、遠くから見たときとはちょっと感じが違うなと思った。でも、今まで話したこともないのにブシツケにそんなことを聞かれるのは気に入らない。
「人に名前聞くときは、自分から名乗るのがれいぎだって言うだろ。大人のくせにそんなのも知らねえのかよ」
 するとそいつは驚いたような顔をして、それから顔をくしゃくしゃにして笑った。
「言うなお前。わかったよ。俺は宍戸。宍戸亮」
 なんだこいつ。普通、見ず知らずのガキにこんなこと言われたら怒るだろ。笑ってんの、しかも何か、すごく嬉しそうに。
 まあでも名乗られたからおれも教えてやらなきゃいけないんだろうな。そう思って言いかけたら、そいつはやっぱりいい、と言った。
「は?」
「やっぱいいや。聞くのやめとく」
 ……わけわからねえ。ホントになんだよこいつ。おれがじっと見てると、そいつはまた笑った。
「お前、すっげー上手いらしいな。ずっとやってるのか?テニス」
「小学校入る前からやってる」
「へえ。お前、いくつ?」
「10歳」
「…そっか」
「あんた、おれに何か用があるの?」
 もうすぐ母さんから電話がかかってくるはずだ。イライラしながら聞いてみると、そいつは頷いた。
「なあ。今日これから時間ないか?」
「……なんで」
「ちょっと俺に、つきあってくんねえか?」
 はあ?
 おれはそいつを睨んだ。今日初めて話をしたばっかのガキに何の用があるんだよ。だいたい俺はこれから母さんと待ち合わせなんだよ。
「あんたさあ」
「宍戸でいい」
「宍戸…サン」
「あー、呼び捨てでいいぜ」
 呼び捨てでいい?おれ、あんたよりかなり年下なんだけど。でもそいつはやっぱり笑ってるんで、まあいいかと思って呼んでみた。
「……シシド」
 あれ?何だこれ。
 宍戸って名前の知り合いはいないはずなのに、なんか、その名前の呼び方を口が知ってるみたいな感じだった。
 何だこれ?
 おれは不思議に思いながら、とりあえず続けた。
「つきあえって、どこ行くつもりなんだよ」
「えっと、まあいろいろ、お前に見てもらいたいモンがあってよ。あと、お前とテニスしてみたいなって」
「テニスならまたここでできるだろ。てか何でいきなり。初対面なのに何のつもりなんだよ。気味悪ぃ」
「人を変質者みたいに言うな」
 シシドはおれの頭を軽く小突いた。
「あと、……初対面じゃねえよ」
「じゃあいつ会ったっていうんだよ」
 おれは知らないぜ、と言ってやると、シシドは少し寂しそうに笑って、それからにやって意地悪そうに笑った。
「コーチの間で噂だったんだよ、すっげー生意気でひねくれてて、でもテニスは上手いマセガキがいるって」
「それ、おれのことかよ」
「他に誰がいるっつーんだよ、バーカ」
 シシドは面白そうに言った。おれは全然面白くない。だいたいこのおれに向かってバカなんて、学校の奴らだって先生だって親だって言わない。てか絶対、おれよりこいつのほうが頭悪そうなのに。
「バカって言うな」
「お。気に触ったか?」
「バカっぽいヤツにバカって言われたくねえよ」
 シシドは何が可笑しかったのか、けらけらと笑い出した。おれはますます腹が立って、なかなかかかってこないケータイを握りしめた。
「もういい。おれは今から用事があんだよ」
「用事?」
「母さんと飯食いにいく。あんたに関わってる暇はねーんだよ」
 テニスなら、また今度相手してやってもいいけど。そう言ったら、シシドはちょっと真剣な顔になった。
「今日がいいんだ」
「なんで」
「まあちょっと、特別な日でさ」
「だから、用事が」
 言ったとき、手に持ってたケータイが震えた。メールが一件。開いてみると母さんからだった。
『ごめん、ちょっと急用入っちゃっていけなくなりました。ひとりで帰ってきて、お昼ご飯適当に食べてね』
「……」
「ほら、神様がそうしろって言ってんだよ」
 シシドは横からそれを覗き込んでまた、にやって笑った。
「……」
「今ならもれなくランチ付きだぜ?」
 …なんかむかつくけど、まあいいか。
  渋々頷くと、テニスバッグを肩にかけた。

 

 

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