ふいに大きく揺れた空気に、人々は顔を上げた。

 バサバサと羽音を立てながら、鳥たちが一斉に飛び立つ。鳥たちが残した白い羽根が、風に吹かれてくるくると回転しながら落ちていった。乾いた砂漠のこの街にあって、その風は数十年に一度、この街の人々に驚異と畏怖とを持って迎えられる。
 来たな、と誰かが低く呟いた。

 天使は、舞い降りた。

 

 

 

****

 

 

 

「……何ボケーっと見てやがる」
 至近距離で覗き込むと、”それ”は不機嫌そうにそう言った。

「てか、お前これ、本物?付けてるんじゃねえよな?」
「どういう意味だよ」
「まばたきしたら風来るじゃん!重くねえのかよ、このまつげ!」
「顔の近くでベラベラ喋るな、鬱陶しい」
 手を伸ばして長いまつげを指でつかもうとした男の手を、”それ”は忌々しそうにはね除けた。
「だって俺、本物のファティマなんて見たことねえからさ!すげー!」
「……何がすげーんだよ、てめえ騎士なんだろ」
「まだ騎士の登録してねえもん。絶対なるけどな!」
 まだまだ修行中の身なんだよ、と言いながら、なおも男は”それ”の全身を物珍しそうに見る。
「てめえな……」
「宍戸だって。宍戸亮。そういえば、お前名前は?」
「……跡部、だ」
 漆黒のマントに身を包んだその美しい人工生命体―ファティマは、そう名乗ってフンと顔を背けた。水の中に一適だけ青いインクを落としたような淡い青色の瞳と、その持ち主が人間ではないことを証明する眼球を覆う透明なカバーが、夕暮れの太陽の光を反射して不思議な色に煌く。
 作り物のような―まさしく”作り物”ではあるのだが―綺麗な顔に、雪のように白い肌。全身黒い服を身に付けているので、その白さが一層際立つ。そして、全体的にほっそりとした体つき。ファティマというのはそういう生き物なのだと話には聞いていたが、実際にそれを目の前にして宍戸は驚きを隠せなかった。
「いつまで馬鹿みてえに見てる気だ」
 その視線に堪えられなくなったのか、跡部が低く言った。
「あ、悪い。いや、珍しいからさ……」
「てめえだって騎士になったらファティマ持つんだろうが。珍しいとか言ってる場合かよ」
「だって。…でもさあ」
「?」
「ファティマって、騎士の戦闘の時のパートナーなわけじゃん?一緒にMH乗って、コントロールしたり調整したりするんだろ?」
「だったら何なんだよ」
「外見なんかどうでもいいはずだろ。何で不必要に綺麗な見た目してるわけ?」
「俺が知るかよ。……ファティマ製作者の―マイトたちの趣味なんじゃねえの」
「ふーん」
 納得できないような表情のまま、宍戸はとりあえずそれ以上跡部をジロジロ見るのはやめておいた。昼過ぎに街の外れで大人数に絡まれていたところを助けてやったこの”はぐれファティマ”は、どうやらずいぶん気が短いらしい。
 宍戸は自分の中の”ファティマ”に関する知識を記憶の中から必死に手繰り寄せた。が、出てくるものといえば、美しい外見、騎士並みの戦闘能力と卓越した知能、それから忘れてはならない「人間に従順」というキイワード。
(従順……?)
 自分の中に生まれた疑問には敢えて触れずに、宍戸はふうと息をついた。
「それで、お前はひとりなわけ?お前の持ち主は?マスターはいねえのか?」
「いない」
「へえ。で、このへんをずっとフラフラしてんのか?」
「……」
 少し黙って、それからため息をつくと、跡部は俯くようにしながら言った。
「……壊れかけなんだよ」
「何が?」
「俺が」
「え?どこが?性格?」
 がつ、という音と共に、頭に鈍い痛みが走った。
「いって!何しやがる!」
「この俺様の性格のどこが壊れてるって言うんだよ、バーカ」
 殴られた頭を押さえながら宍戸は考える。やっぱり、このファティマは自分の知識の領域にあるファティマ像を遥かに越えているようだ。しかも、かなり悪い意味で。
「……じゃ、何が壊れてんだよ」
「お前がさっき言った言葉だ」
「性格が壊れて?」
「沈めるぞてめえ。違う。その前だ。俺の持ち主がどうって」
「ああ。マスターはいないのか、って?」
「そう。その言葉だ」
「マスター?」
 ああ、と跡部は頷いた。
「その言葉が何故か出てこない。だから、誰のものにもなることができない」
「……」
 黙り込んだ跡部の、不思議な光を放つ瞳を宍戸は見つめた。

 戦闘時、騎士のパートナーとなり共に戦う、「生きた道具」であるファティマ。一般の人間を凌駕する能力と寿命を持つ彼らを恐れた科学者たちは、生きていく上で様々な制約を彼らに加えた。そんな彼らが持つ唯一の権利、それが、「自らパートナーとなる騎士を選ぶ」というものだった。
――私をあなたのパートナーに。”マスター”。
 その言葉が出てこないということはすなわち、パートナーを得ることができないということだ。
(でもなあ…)
 宍戸は思った。基本的に人間に絶対服従のはずなのに、仮にも騎士に近い人間である自分に対してこんな態度を取り、果ては殴るまでしたこのファティマが、そんな常識に囚われているのだろうか。
「お前本当にファティマなんだよな?」
「ああ?今さら何言ってんだ」
「でもさあ、普通ファティマってのはこう、人間に対して絶対敬語だったり、もっと謙虚な態度取ったりするもんじゃねえのか?」
「知らねーよんなこと。別に逆らってるわけじゃねえだろ」
「……まあそうだけど」
「命令されたら何だって聞くさ」
 言って、跡部はふと笑った。
「謝れとか、土下座してみろとか。…死ねと言われたって。そういうふうに作られてるんだからな。――やってみるか?」
「……」
 宍戸はしばらく考えるようにしていたが、やがてぽつりと言った。
「俺はいいわ」
「……?」
「何か、そういうのってフェアじゃねえ気がする」
「……人間とファティマの間に、フェアもクソもあるかよ」
 呆れたように言う跡部に、宍戸はにやりと笑ってみせた。
「いいんだよ。そのうち、命令じゃなくても俺のために何かしたいって思うようにしてやる!」
「バカか。大体てめえのレベルじゃ俺様のサポートなんか勿体ねえよ」
「うるせえよ!修行中なんだって言ってんだろ」
「しょうがねえな」
 軽くため息をついて、跡部は腕を組んだ。
「じゃあ俺が教えてやるよ。実戦経験はお前より遥かにあるんだからな。お前ひとりだったら、いつ普通の騎士レベルになれるんだかわからねえだろ」
 宍戸が目を見開く。それは、願ってもないことだ。
「マジで!?」
「そのかわり当分の間食わせろよ。寝るところも着るものも保証しろ。ああ、俺はレトルトとかファーストフードとかは食えねえからな。てめえが料理しろ」
「何だよそりゃ…」
 やっぱりこいつは普通のファティマとは違う。絶対何かが違う。
 めちゃめちゃ性格壊れてんじゃん、と。ぽつりと漏らした小さな呟きは、人間を遥かに越える聴覚を持つ跡部にはっきりと聞き取られ、宍戸は本日2発目の拳を額にくらって、目に涙を滲ませることになったのだった。

 

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