青白い月が、灯りひとつない建物の周囲を静かに照らしていた。
(あいつどこに行ったんだ?)
店が閉まる時間になっても跡部は戻ってこなかった。先に宿に帰ったか、それとも気まぐれにどこかに散歩にでも出たのかと気にも留めていなかったが、宿に戻ってみても誰もいない。さすがに少し心配になって、宍戸は跡部を捜しに出たのだった。
この街はどの国家にも属さない自由都市で、様々な国から様々な人種、職種の人間たちが集まる活気に満ちた場所だった。しかし、光が強ければ強いほど、そこに落ちる影もまた深いものとなる。特に夜のこの街は、決して治安がよいとはいえない。
路上に集まる浮浪者やストリートチルドレン、恐らく薬を使って前後不覚に陥っているらしい若い男女や怪しげな物売りなどを横目で見ながら歩いていると、建物が入り組んだ路地から少し離れた場所に、見覚えのあるものが落ちていた。
(……これ)
拾い上げてみる。それは、漆黒のマントだった。
(跡部の……?)
嫌な予感が宍戸を襲う。
その時、すぐ上の古びたアパートの窓から、何か物が割れるような音が響いた。それに重なるように、うめき声が聞こえた。聞き覚えのある声。
「早くしろよ!次は俺だ」
「焦んなって。こいつ何でも言うこときくんだぜ。何しても罪にはならねえんだぜ!」
まさか。
(……跡部!)
マントを手にしたまま、宍戸は駆け出した。
****
「!」
階段を駆け登り、ドアを蹴り上げてその部屋に侵入した宍戸が見たのは、数人の男に押さえつけられている跡部だった。
「跡部!」
「ああ?何だてめえ」
一人の男が、跡部の身体を抱えたまま宍戸を睨み上げた。両腕を封じられぐったりとなった跡部の身体には、いくつもの暴力の跡が残っている。
「……てめえら!」
カッとなった宍戸が剣を抜こうとしたその時、跡部が鋭く叫んだ。
「やめろ、宍戸!」
「跡部!?」
「一般人に手を上げるな。騎士として二度と表舞台に立てなくなるぞ」
自分を睨むようにそう言う跡部に、宍戸は首を振る。
「……何言ってんだよ、そんなの!」
「騎士に、なるんだろ」
「……」
言葉を失った宍戸に、跡部はにやりと笑ってみせた。
「いいから外に出てろ。残念ながら、見られて興奮するようには作られてねえんだよ」
「跡……」
「ほら、ファティマだってこう言ってんだろ?さっさと出ていけよ。安心しろ、壊しゃしねえから。それともあんたも同じ事されてえのか?」
下卑た笑いを漏らしながら、男のひとりが動けずにいる宍戸の首もとを掴んで引きずる。
「あんたは人形じゃねえ。ちゃんとした人間だろ」
宍戸の目の前で、ドアは再び閉ざされた。
「しっかし白いなこいつ!すげー、肉ついてねえ!」
「だから早くしろって!」
「……」
両手で跡部のマントを握りしめ、ドアに額を押し付けたまま宍戸は唇を噛んだ。
(跡部……!)
振り切るようにもう一度ドアを開こうとした瞬間、頬に衝撃が走った。
「馬鹿者!」
低い声と共に、宍戸の身体は数メートル先へ飛ばされた。右頬に残る痛みに、殴られたのだと気づく。
「ファティマが言ったことを忘れたのか!」
「……誰、だ」
目の前に立っていたのは、ひとりの男だった。おそらく騎士なのだろう、すぐ後ろに、ファティマらしき少年を従えている。
「そんなことはいい。お前は先程店の中で、あのファティマは自分のものでも誰のものもないと話していただろう。男たちがどんな目でファティマを見ていたかにも気づかずに!」
「……」
返す言葉もないまま、頬を押さえて宍戸はゆっくりと立ち上がった。
「誰のものでもないファティマがどういう目にあうのか、知らぬわけではあるまい!」
「……」
宍戸は黙り込んだ。確かにそうだ。ファティマたちには、基本的に人権のようなものは認められていない。誰に対しても服従するようにマインドコントロールされているのだ。だから「マスター」、つまり主を得てはじめてその保護を受けるのである。そのマスターがいないファティマはいわば裸同然であり、特にこの街のように治安の悪い場所では、興味本位の人間に捕まってボロボロになったファティマを目にすることは珍しいことではないのだった。それなのに。
(ちくしょう…!)
跡部だから、と油断していたのかもしれない。あの普段の態度や強気な性格のせいで忘れていた。彼は紛れもなく――ファティマなのだ。
「それくらいのことも考えられないような人間に、騎士を名乗る資格はない!」
「……」
「今度だけは助けてやる。赤也」
「はい、マスター」
ゆるくウェーブのかかった黒い髪を持つそのファティマは、印象的な大きな目を主のほうに向けた。
「この男は任せた。外に連れていけ」
「了解っス」
宍戸の手の中にあったマントを奪いそのまま先程の部屋に入っていく男を、呆然と見送る。その表情に気づいて、赤也と呼ばれたファティマは宍戸の傍らに座り込んだ。
「大丈夫ッスよ。あの人は真田っていって、『天位』の位を持つ騎士だから」
「――強い奴なのか」
「強いっスよ」
「……」
再び黙り込んだ宍戸に視線を向けながら、”赤也”はふう、とため息をついた。
「……納得行かないこともあると思うけど、ファティマってそういうもんなんスよ」
宍戸は顔を上げた。
「誰にも逆らえない。そして命令があれば、誰の言うことだって、どんなことだって聞く。笑いかけもするし、奉仕もするし脚だって開く。そういうふうに作られてるんだから。嫌だとか、屈辱だとかそういうことじゃないんです」
――命令されたら何だって聞くさ。
(……)
「あのひとを……責めないでやってくださいね」
行きましょう、と促す赤也に答えることなく、宍戸は黙って立ち上がると、強く拳を握りしめた。
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