目を覚ますと、跡部が上から俺を覗き込むようにして睨んでいた。

「……」
「さっさと起きろ、馬鹿!」
「……んだよ、今日は土曜……」
「早く起きる必要がねえなら目覚ましセットすんな!」
「はあ?」
「鳴りっぱなしだったんだよ!気づけ!うるさくて頭が痛えんだよ!」
「んなこと言ったって……」
「俺には止められねえだろうが!」
 あ。
 そこでやっと俺は、昨夜自分の身に起こったできごとを思い出した。何故跡部が当然のように俺の家にいるのかも、そして彼が目覚ましのアラームを止められないと言ったわけも。
「そりゃ、すいませんでしたねー……」
「誠意がねえ」
 俺は止まった目覚ましに手を伸ばした。確実な重さを持って俺の手に乗る小さなそれ。
「よっ」
「何しやがる!」
 跡部に向かって投げたはずのそれは、跡部の胸のあたりをすり抜けて壁に当たり、ごとんと音を立てて床に落ちた。
「やっぱりすり抜けんだ」
「昨日見ただろ。もう忘れたのか?馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、そこまでだったのかよ」
「うるせーよ!」
 そんな急に納得がいくか。死んだはずの跡部が幽霊みたいになって、この世界に戻ってきたなんて。

 

 

 

「どうしたの?亮。珍しいわね、お腹空いてないの?」
「んー……」
 大好物のはずのチーズサンドをひとくちだけ口に入れてダイニングテーブルに顔を伏せた俺に、母さんは不思議そうな顔をする。
 昨日はいろんなことがありすぎて、不屈の根性と体力を誇る俺もさすがに、疲れた。
(くそ、跡部の野郎……)

 昨晩跡部は一通りの状況説明を終えた後、俺はしばらくここで暮らす、と言った。
――はあ?何でだよ。
 俺が思いっきりまゆをひそめると、跡部にしては珍しい、バツの悪そうな表情で言い募った。
――何ででもいいだろ。別に四六時中ここにいるって言ってるわけじゃねえ。それに多分、お前以外のヤツには俺の姿は見えねえし、俺の声も聞こえねえ。そんな所に行っても退屈なだけだ。
――え、マジで?俺にしか見えねーのか?
――それはそのうち確かめてみればいいだろ。
 もうこの話は終わりだとばかりに、跡部は立ち上がった。ここで暮らすというのは、俺の意見を聞くまでもなく決定事項らしい。どうでもよくなって、俺はベッドにごろんと横になった。そもそも俺は寝ようとしていたところだったのだ。こいつが突然姿を現すまでは。
――じゃあお前、どこで寝んだよ。ソファならリビングにあるぜ。床でもいいけど。
 こいつが床でなんか寝るわけないか。そう思って言うと、案の定跡部は盛大に嫌そうな顔をした。
――必要ない。
――は?
――食ったりとか寝たりとか、そういうのは必要ねえんだよ、この身体は。
――え、じゃあ……。
――ずっと起きてるしかねえってことだ。
 それは、辛いんじゃないのか。物にも触れない、眠ることもできない、それで一体、みんなが寝静まった夜をどう過ごすんだ?
 俺が口ごもると、跡部はまた俺の考えを察したように、鼻で笑った。
――バーカ。お前のその可哀想な頭で心配してもらうほどのことじゃねえ。さっさと寝ろ。
――……。
 いちいちひっかかる言い方だが、要するに気にするなということなのだろう。
――……じゃ、お言葉に甘えて。
 確かに、俺があれこれ考えたってどうしようもないことだ。俺は毛布を被った。
――とりあえず、今晩はどうするんだ?
――お前の家をじっくり見させてもらう。
――お前の家と違うんだから、んな見るとこねえだろ。
 それから、父さんや母さんのプライベートまで覗くなよ。言ってから俺はふと、椅子に座り直して(座っているのかはわからないけど)ふんぞり返っている跡部を見た。
――あのさ。
――何だよ。
――これでさあ、俺が朝起きたら、お前消えてたりとかしねえ?
 跡部はらしくなく、ひどく驚いたような表情をした。
 ただ、俺は何か、夢を見ているみたいだと思ったのだ。全部俺が勝手に見ている夢なんじゃないか、だから明日目を覚ましたら跡部はやっぱりいなくて、いつも通りの何でもない朝が始まるんじゃないかって。
 それとももしかしたら――跡部が死んだ、そのことも夢なんじゃないのかなんて思ったのかもしれない。
――……何だ、俺様がいないとつまんねえって?
――アホ。誰がだよ。
 俺は毛布を頭まで被った。つまるとかつまんねえとかそういう問題ではなくて。多分、信じられないんだと思う。いろんなことが、まだ俺の心のなかで整理されていなくて。
 その証拠に、俺は跡部がいなくなってから一度も泣いていないし(あの忍足ですら葬儀のとき隠れて涙ぐんでいたのを俺は知ってる)、岳人のように無理に明るく振る舞おうとすることも、長太郎や樺地のように目に見えて落胆することもなかった。当初は色々といっぱいいっぱいだったとはいえ、その後はいつもどおり、だった。同じ部活の、いつも喧嘩ばかりしていたとはいえ仲が悪いというわけでは決してなかった友達が死んだというのに、だ。
 俺って、友達甲斐のない冷たいヤツなんだろうか。
 そこまで考えてふと我に返り、毛布からもぞもぞと目だけを出すと、それまで俺のほうを見ていたらしい跡部は、俺から顔を背けた。
――朝になっても消えねえよ。ここにいる。
 俺は安心したのか何なのか、そのままずるずると眠りに引きずり込まれていった。

 そして、朝の会話に至る。

(……あー……)
 思い出して頭を掻いた。目覚ましがうるさいと言って怒った跡部。うるさいんなら外に出てりゃよかったじゃねえかと俺は思ったのだけど、もしかしてあれは。
(ここにいる、って言ったからか)
 あれで跡部は、時々妙なところで驚くほど律儀だったりする。例えば主なレギュラーメンバーの誕生日はきちんと覚えていたり、いつ言ったかその本人も覚えていないような「欲しいもの」をさりげなく覚えてて、プレゼントしてくれたり(もちろん偉そうに、だけど)。この間の岳人の誕生日には、ほらあれ何ていったっけ、そうキダムとかいうやつ。見にいけなかったとかいって悔しがってたのを覚えてたらしくて、追加公演のチケットをプレゼントしてたんだよな。しかもSS席2枚。当日までに一緒に行ってくれる物好きな女でも捜せよとか余計なこと言って、岳人を怒らせて面白がってたけど。
 そんなことを考えて俺はふと思い当たった。
 跡部は自分の15回目の誕生日を迎えることなく、死んだんだ。





 階段を上って部屋に入ると、跡部は窓際に座って外を眺めていた。窓は朝に俺が全開にしたままで、少し冷たい風がカーテンを微かに揺らしていたけど、そこに座っている跡部の淡い茶色の髪は少しも揺れることはない。
「……朝飯にどれだけ時間かけてやがる」
「うるせーよ」
 焦って俺は窓を閉めた。何に焦ったのかはわからなかったけど。
「で?これから何するんだ?」
「……あー……」
 俺は思い出したように時計を見上げた。もうすぐ11時だ。ヤバイ、どうしよう。
「昼からストテニ行くん……だけど」
「お前はテニスしかすることねえのかよ」
「うるせえ」
「誰と行くんだ?」
 尋ねられて、俺はなんとなく後ろめたいような気分になった。忘れかけてたけど、今目の前に立って床から心持ち足を浮かせているこいつのことと同じくらい、俺を混乱させたもうひとつのできごと。
「……長太郎」

 あなたが好きです、俺にそう言ってあいつが泣いたのも、昨日。

 

 

 

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