私は夢を見たことがないので
あなたの瞳に憧れます
私は恋をしたことがないので
あなたの涙に憧れます
私は迷ったことがないので
あなたの言葉に憧れます
私は失ったことがないので
あなたの全てに憧れます
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見ていることしかできなかった。それは、彼のために何かをしたいのにできない無力感とか、そういう甘ったるい感傷的な意味ではない。どちらかといえば呆然としていたとか唖然としていたとか、そちらに近かったのだと思う。
強くなって戻ってくるはずだ、そんな親心のようなものは特になかった。ここで駄目ならそれまでだし、嫌なら何かをやってみせろ。そう、思っていた。彼はやってみせ、それを俺は見ていた。
照明に照らされたテニスコートに響く鈍い音と、傷だらけになってボールを追うその姿。こいつはバカだ。正真正銘のバカ。
けれど、動けなかった。
彼が持たずに俺が持っているものはおそらくたくさんあるだろうけれど、それでも、俺が絶対に持てないものを彼は持っている。羨ましいというのではなく、多分、悔しかったのだ。
唯一のもののためにどこまでもみっともなくなれる強さ。
考えてみればそれがきっかけだったのかもしれない。
けれどこの気持ちがなんであるのか、気づいた時にはもう、手遅れだった。
「ぎんいろ……なつ、き?」
「……なつお、だ。バーカ」
「何だコレ。写真集か?」
「詩集だろ」
吹き付ける強い風に煽られてバサバサと小さな音を立てている文庫本を覗き込み、宍戸はふうん、と言った。誰かが置き忘れていったのだろう。広い氷帝学園内において、講堂をはさんで丁度職員室から死角になるこの南棟の屋上は有数のサボりスポットである。暇つぶしに誰かが読んでいたのかもしれない。
俺は屋上のフェンスに座ったまま、グラウンドを見下ろしていた。4時限目がもうすぐ終わる時間だ。笛の音と共に、バスケットをしていた生徒たちが体育教師の周辺に集まっていく。
「あの、さ」
「何だ」
「……悪かったよ」
「……」
当然だ。俺は何も悪くない。けれど、そう時間は経っていないはずなのに、不思議ともう怒りはなかった。素直に許したわけではないし、以前だったらこの状態で何か話しかけられても絶対に返事などしなかっただろう。下手をすれば問答無用で殴っていたかもしれない。もっとも、もうこいつを殴ることはできないのだけれど。
「もういい」
「は?」
「もういいって言ってんだよ、どうにかしろそのバカ面を」
「……」
何か言い返そうとしていたようだが、拳に力を込めて耐えているようだった。フン、少しは成長したじゃねえか。
それは、3時限目の授業中のできごとだった。
月曜日。宍戸と共に登校した俺は、そのまま宍戸のクラスで時間を潰していた。初めは自分の教室に行ってみたのだが、俺の使っていた机の上に花が飾られていたのを見て嫌な気分になったからだ(ちなみに同じクラスの忍足は欠席のようだった。あいつは見かけによらずよく病欠する。ただのサボりなのかもしれないが)。
英語の授業だった。成績別にクラス分けされるこの学校で、宍戸のクラスは位置的にちょうど中の中レベルに当たる(当然俺は最上位クラスだ)。授業の進行は俺のクラスより少し遅れているらしく、教師が下手くそな発音で長文を読むのを聞いていた。
当然のように宍戸は眠っていた。それについては予め予測していたので別に驚くことはなかった。しかしその眠り方が、背筋をぴんと伸ばしたままの、一見眠っているようには見えないようなものだったことには多少驚いた。見事だった。ということはつまり宍戸的にも、自分が眠っていることを教師に知られるのは嫌だったのだろう。
そう思ったから、起こしてやったのだ。訳文を当てられた時に、耳元で名前を呼んで。俺にしてみれば随分寛大な心を持って。
だがあのバカは寝ぼけていたのか、それとも突然耳元で聞こえた声に驚いたのか、大げさに声を上げ教室中の失笑を買い、教師からは退場の宣告を受けた。
――てめえのせいだろ何もかも!このアホ!
ぷちん、と。
自分の血管の切れる音がやたらクリアに聞こえた。血管などもうないのだという事実には目を瞑ることにして、俺は、静かに切れた。
誰もいない保健室での罵り合いに疲れた俺は、それから他の教室を回ってみた。3年生の教室も、2年生の教室も。知っている人間の側に立って片っ端から声をかけてみたが、俺に気づく奴はいなかった。ただひとり、あの、背の高い後輩を除いては。
……そうか。怒りを持続できなかったのは、そのせいだったのかもしれない。
4時限目終了のチャイムが響いた。グラウンドの生徒たちが下駄箱に向かって一斉に駆けだしていくのが見える。
「……俺昼飯行くけど、お前どうする」
「しばらくここにいる。帰りも適当に帰る。お前は勝手にしろ」
「勝手にって……」
「そのほうが都合いいだろ?」
俺はにやりと笑ってみせた。
「あいつが待ってんだろ」
「……」
誰のことを言ったのか、宍戸はすぐに気づいたらしい。鈍感なこいつにしては上出来だ、と思っていると、宍戸は俺を睨んだ。
「お前、長太郎のことバカにしてんのか」
「……」
「あいつが真剣なのは、俺が一番知ってるんだよ。バカにすんのは許さねえからな」
言って少し顔を赤くする。知ってる、か。
「……。別にバカにしてるわけじゃねえよ」
「じゃあ、」
「お前、鳳が好きなのか?」
「バッ……」
カじゃねえの、と言いかけて、その発言が意図せず自分の言ったことと矛盾しているのに気づいたらしい。
「いや、だからその、バカとかそういうんじゃなくて……」
「好きなのか?」
もう一度聞いた。軽口のつもりだったが妙に真剣な口調になってしまった焦りを隠すように、また少し笑ってみる。
「……大体、俺は男だ。男を好きになんてなるかよ」
そうだろうな。
俺はフンと鼻で笑った。
「まあ俺には関係ないことだ。せいぜい悩め」
「うるせーな!」
もう行くぞ、と言って宍戸は踵を返した。階段の入口の影に姿が消えようとしたとき、下から昇ってきた誰かと鉢合わせたのが見えた。
鳳だ。
きっと宍戸を捜しにきたのだろう。しかし、鳳が何かを言う前に、宍戸は顔を赤くして階段を駆け下りていった。
あからさまなのにも程がある。
鳳はその後ろ姿をじっと見ていたが、やがて少しため息をついて、俺のほうに向かって歩いてきた。
フェンスに両腕をついて、ぼんやりと空を見上げている。土曜日のストリートテニス場で、宍戸を待っていたあの時のように。
「……鳳」
できるだけ驚かせないように、少し離れた場所から声をかけた。何しろ向こうからは、姿は見えないのだ。
「跡部先輩?」
やや驚いたように、鳳は振り返った。
「お疲れ様です」
それでも挨拶は忘れない。視線の先は俺のいる場所からは若干ずれていたが、肝が据わっているというのか単に天然なだけなのか、鳳は「死んだはずの人間の声だけが聞こえる」という状況に早くも順応してしまっているようだった。
「お前は昼飯にはいかねえのか」
「あ、なんかちょっと、食欲なくて」
俺の声のした場所から位置を把握したらしく、俺の目があるあたりにきちんと視線を合わせて鳳は言った。この後輩は、いつも人の目をきちんと見て話す。……宍戸に関しては、それが上手くいかないようだけれど。
「でも、なんか変な感じですね、姿が見えないなんて」
「なんか変な感じ」どころじゃねえだろう、と俺が呆れていると、鳳ははは、と笑った。
「いつ見られてるかわからなくて、ちょっと、怖いかも」
「……」
それは随分控えめな言い方だったが、当然だろうと思った。もし自分がこいつの立場だったら、気味が悪くてしょうがないだろう。どこで見られているかわからないのだから、プライベートはないに等しい。
「鳳」
「はい?」
「心配すんな。お前の近くにいるときには必ず声を掛けるから」
「え」
「それに」
俺は笑った。鳳には見えないだろうが。
「別に、ずっと宍戸の近くにいるわけじゃねえよ」
だから気にするな。言ってやると、鳳は複雑な表情をした。
「……跡部先輩は……」
「なんだ」
「いえ……」
少し迷うようにしてから、鳳は続けた。
「あの、もう知ってると思うんですが」
「?」
「俺、宍戸さんが好きなんです」
「ああ?今さらだろ。知ってる」
「そう、ですよね……」
鳳はまだ話し足りない様子だったが、やがてにっこり笑った。
「じゃあ、俺、行きます。5限の予習しなきゃ」
「そうか」
失礼します、と頭を下げて鳳は去って行った。側から見ると何もない空間に向かって頭を下げている様子はとても奇妙なものだろう。ここが屋上でよかった、と思いながら俺はまた、フェンスに座った。
流石に昼休みも始まったばかりだと、校舎の外には人はいない。グラウンドからその脇のテニスコート、それから中庭に視線を移したところで、俺は見つけた。人気のない芝生の上、金色に近い茶色の髪を風に揺らし、横になって眠っている小さな影。
――あーとべ!
いきなりの出来事に驚いている俺の顔を、下から覗き込むようにして彼は笑った。
――へへ、奪っちゃったー!って、なんかのCMみてーだな!
(ジロー……)
彼が幸せでいてくれたら、いいのだけれど。