誰かのことを綺麗だと思ったのは、後にも先にもその一度きりだったような気がする。

 いろいろなことに疎いという自覚はあるけど、彼が一般的にみるととても整った顔立ちをしていて、実際周囲の人間たちにそう言われていることは知っていた。でも、俺はその事実にあまり興味はなかった。大体男の顔なんてどうでもいいし、そもそもそれほど面食いってわけでもねえしな。そんなことを一度だけ「彼女」ってのがいたときにその子に言ってみたら、それは自分のことなのかとかいってキレられたけど。
 そんな絶望的な美的センスを誇る俺だってもちろん、綺麗っていうのがどういうことなのかが全く分からないわけじゃない。朝走りに行くときに見る朝焼けとか、放課後の夕焼けとか、月とか、星とか、綺麗だと思うものは日常の中に案外簡単に転がっているものだ。でも、そういうんじゃなくて。

 

――勝ってもーたなあ。
 忍足が呟くのが聞こえて、ようやく我に返った。割れんばかりの氷帝コールに振り向きもせずに、彼はひとり、ベンチへと歩いていった。
 瞬きするのすら勿体無いように目を見開いたままその試合を見ていたから、俺の目はひどく乾いていて少し痛かった。しきりに目をこすっていると、岳人がバーカと言って笑った。
 樺地が彼にタオルを渡すと、彼はそれをそのまま頭から被ってベンチに座り、俯いた。
 何となく近づくことができなくて、随分迷ってから、俺は彼の後ろまで歩いていき、その背中に声をかけた。
――跡部。
 頭にタオルを掛けたまま、ゆっくりと彼は振り返った。

 俺はそのときに初めて。
 彼を綺麗だと、そう思ったんだ。

 

 

――こんなときでも、跡部は綺麗。
 あの日、薄く化粧を施された彼の白い肌を見つめながらジローは小さく言い、そっと花を手向けた。
 けれど俺には、命を失くしてもう力を宿すことのないそれが綺麗だとは思えなかった。 

 

 

 

 

 

 氷帝のカフェテリアは中等部・高等部と一緒になっているので、相当な広さを誇るとはいえ昼時にはさすがに人で溢れ返る。少し背伸びをして見回すと、窓際の日当たりのいい席で岳人が俺に向かって手を振っているのが見えた。それに手を振り返して、トレイを持って長い列の最後尾に並ぶ。
(跡部のヤロウ……)
 思い出されるのは、さっきまでの保健室での激しい怒鳴り合い。きっと他の奴らが聞いても一方的に俺が叫んでいるようにしか聞こえなかったのだろうけど、そんなこと全く気にならなかった。あいつが生きてても死んでても、やってることは大して変わらない。変わったのは、今までだったらごく自然に口喧嘩から腕力勝負に移っていたところが、口喧嘩のまま終わってしまったことくらいで。
(まあ、俺が悪かったし、な……)
 腕力勝負で俺が勝てることはまずない。背格好はそれほど変わらないとはいえ、跡部は鍛え方が違うのだ。もっともその無駄に鍛えられた身体から繰り出される直接的な暴力をまともに受けたことがあるのは俺くらい(あとたまに岳人も)なのだけど、結局最後には俺が負ける。負けるけども謝らない。跡部も当然謝らない。そして時間が過ぎ、俺が先に忘れる。それの繰り返しだった。
 俺から謝ったのなんて、初めてに近いんじゃないだろうか。……それは、跡部を思わず殴ろうとしてその手が身体をすり抜けてしまった奇妙な感覚を思い出し少し怖くなったからとか、そういうわけじゃない、きっと。

「遅い」
「悪い!」
 待ちくたびれて(といっても食うのを待っていたりはしない)食後のお茶をすすっていた岳人の前に、カレーの乗ったトレイを置いて座る。
「ていうか、お前ひとり?」
「侑士は休み。ジローは昼寝。滝は先生に呼ばれてどっか行った」
「へえ」
「そういや鳳がお前探してたぜ。会わなかったの?」
「……」
 に、と笑う岳人に、俺は渋い顔でスプーンを噛んだ。
(跡部がヘンなこと言うから、意識しちまったじゃねえか……)

 

 跡部は、長太郎が俺を好きだというのを知っていたらしい。跡部だけじゃない、周りからみるとそれは「バレバレ」だったんだそうだ。土曜日のストリートテニス場で何とも気まずい対面を果たした俺たちは、少し話をした後テニスもせずに解散してしまった。
 長太郎には悪かったけど、正直俺はホッとしていた。跡部をあの場所に連れて行くことについてはかなり抵抗があったけど、跡部の声が聞こえる、という驚くべき(驚くところなんだよ、俺はもう慣れたけど)事実の発覚で全てがうやむやになってしまったことに安堵していた。
 だって、どうすりゃいいんだよ。

――ただ、知っていて、ほしくて。
 大きな身体で小さくそう言う声が、いつまでも耳に残る。




――お前、鳳が好きなのか?
 だから、違うだろ。俺にとって長太郎はそういう対象ではないはずだし、もちろん長太郎のほうもそうであってはいけないはずなんだ。きっといつかそれに気づくはず。だから俺は普通に接して、その時を待てばいいんだ、先輩として。そう思っていたのに、呼ばれて赤くなってその場から逃げだすなんてアホすぎる。大体、恋愛経験が全くない女の子とかならともかく(いや俺にしたってそんなに経験があるわけじゃねえけど)、男の俺が。
 そんなことを考えながら軽く自己嫌悪に陥っていると、岳人はデザート用のスプーンで俺のカレーの皿の端をつついた。
「百面相になってるぜー」
「うるせえ」
「鳳のことだろ?」
「……」
 顔を上げると、岳人はにやにや笑いを消して、少し首を傾げた。
「わかってんだろ?適当にごまかしたりすんなよ。あいつ、お前ばっか見てるんだから」
 そりゃもう、見てて痛々しいくらいなんだからな。そう言って岳人はまた笑った。違うんだよ、と言いかけて、何が違うのかよくわからなくなり、俺は口をつぐんでスプーンでカレーを掬った。口に入れても味がちっともわからない。
「そーいや」
 岳人はデザートのプリンを掬って口に運ぶ。
「結局、宍戸んとこ学祭の出し物どうなったんだっけ?」
「あー、無難にたこ焼き屋とかって言ってたな」
「やる気ねえなー」
「お前んとこは?」
「劇やるっつって前から練習してるって言ったよな?」
「そうだっけ?お前何すんの?」
「会場設営と宣伝係」
「やる気あんのかねえのかわからねえな」
 そうか?と言いながらプリンの最後の一口をすくって、岳人はそれを俺に向けた。
「なんだよ」
「男テニはテニスコートで模擬試合とテニス教室だってさ。日吉部長が昨日言ってた」
「へえ」
「部長が違うとこうも趣向が変わるんだな」
「……」
 去年はベタに女装喫茶なんてのをやったことを、ぼんやりと思い出す。1年だった長太郎や樺地や日吉はさすがに裏方だったけど、3年生が引退して正レギュラーになったばかりの俺や岳人も、当然のように女の格好をさせられた。滝も忍足もジローも、それから部長の跡部自らも。何故だかよくわからないけど、男テニの女装喫茶は大盛況だった。
 俺は味のよくわからないカレーを食べるのをやめて、窓の外を見遣った。暖かい日差しが差し込むその向こうには、木々が茂る中庭が見える。
「ジローみっけ」
 岳人の言葉に目を凝らすと、中庭の植え込みの間の芝生の上で、ジローが寝ているのが見えた。
「飯も食わずによく寝れるよな」
 俺が言うと、岳人は窓の外を見たまま言った。
「寝てないんだよ」
「……」
「寝てねえよ、あいつ。授業中も机に顔伏せてるけど、全然寝てない。ずっと」
「ずっと?」
「寝れないんだよ、たぶん。あの日から」
 岳人はふう、と息をついた。
 こういうところ、岳人は本当に目敏いと思う。鈍い鈍いと言われる俺とは違う。
(あの日、か……)

 跡部の死を知った日、それから葬儀の時、多分誰よりも冷静だったのは、岳人だった。茫然自失の状態の後輩たちを叱咤し、滝に声をかけ、ジローを引っ張り、静かに言葉を失っていた忍足と喋るばかりで何もわからない俺のために、葬儀の作法なんかを調べてきて教えてくれたりした。
――大丈夫かよ。
 そう言った岳人の目は充血して真っ赤になっていたけれど、それでも、こいつがいてくれてよかったと、その時心から思った。
 そしてそれ以降も岳人はずっと、明るく振舞ってみんなを元気付けようとしてくれた。

「お前は……」
「ん?」
「お前は大丈夫なのか?」
 思わず俺が言った言葉に、岳人は振り返った。
「何で」
「いや……」
 俺が言い澱んでいると、岳人はに、とまた笑った。
「こういうのは、溜め込まないで発散したほうが回復が早いんだよ。俺そういうの得意だから。もう涙も出ないくらい泣いたし」
 まあ完全回復とは言えないけどな、と言って、岳人は冷たくなったお茶を一口飲んだ。
「というわけで、ジローはお前に任せた」
「あ?」
「俺はあの眼鏡のデッカイ子のお世話もしてやんなきゃいけないし」
「ああ……」
「風邪だって言ってたけどさ。ホントに見掛け倒しなんだよな、侑士のヤツ」
 手のかかる子が多くて大変だよ、と言う岳人に、俺は少し笑った。
「お前ってさ、なんつーか、勉強はできないけど頭がいいタイプだよな」
「……それは誉めてんのか、貶してんのか」
「最大限の誉め言葉のつもり」
「宍戸のくせに生意気!」
 岳人は腕を伸ばして俺の鼻をつまんだ。
「痛!」
「大体、俺とジローが宍戸より下のクラスってのがおかしいんだよ。ジローはいいとして、俺はあのクラスで一応トップなんだからな!クラス最下位のお前より、絶対上のはずなのに」
「言いたいこと言いやがって……」
 お返しとばかりに俺も岳人の鼻をつまむ。岳人はじたばたしながら俺の腕をつかんだ。
「事実だろ!……とにかくそういうわけで、ジローのこと頼んだからな」
「……。わかったよ」
 俺が頷くと、岳人は急に真剣な表情をした。
「何だよ」
「……お前こそ、大丈夫?」
「……」
 跡部のことを言っているんだろうか。
 大丈夫もなにも、いなくなったことをしみじみと感じる前に、また目の前に現れたんだからな。ついさっきも喧嘩してきたばかりだと言ったら、こいつはどんな顔をするんだろう。
「俺は大丈夫だけど?」
「……、ふうん」
 岳人は意味ありげに頷くと、また窓の外に視線を向けた。
 俺も窓の外を眺める。ジローは変わらず、横になったままだ。やわらかい太陽の光が、ジローの金色の髪を眩しく照らしている。

 ある光景を思い出して、俺はしばらくその姿に見入っていた。

 

 

 

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