「りょーちゃん、でしょ?」
俺が近づくと、ジローは目を閉じたまま言った。
「……起きてたのか?」
「んー、まあね」
よいしょ、と身体を起こす。俺に向き直って、にっこり笑った。
「りょーちゃんが放課後テニスバッグ持ってないなんてめずらC〜」
「お前まさか、昼休みからずっとここで寝てたんじゃねえだろうな」
違う違う、とジローは首を振る。
「あんまり授業サボったらがっくん怖いし。ちゃんと出たよ?」
「……そっか」
ふわわ、とあくびをするジローの隣に座ってみる。眠そうに細められた目は、少し赤かった。
――寝れないんだよ、たぶん。あの日から。
(……)
はい、と差し出されたムースポッキーを一本もらって口に運ぶ。
「そういやお前、目閉じたままよく俺ってわかったな」
「ん?あー俺ね、足音でわかんの、誰か。りょうちゃんが俺起こしにきてくれんのって滅多にないし」
俺うれC−、とジローはまた笑った。
「かなり貴重。がっくんとかおしたりとかも珍しいけど」
「そだっけ」
そうだよ、と言って腕を伸ばしてのびをする。金色に近い髪が、傾きかけた太陽の強い光に透けて眩しく滲んで見えた。
「大体樺地かな、んでそのままコートまで運んでくれんの。次が、樺地が用事でいないときとかの……跡部」
最後の一本どーぞ、とジローはポッキーの箱を俺に差し出した。その様子は以前と何も変わらないように思える。
でも。
(もしかして、待ってるんだろうか)
眠れないくせに。
それでもこうしてじっと目を閉じて、あいつの足音が聞こえないかと。
「……ジ、」
言いかけたとき、ズボンのポケットにつっこんでいた俺のケータイが鳴った。
着信は岳人からだ。
「どした?」
『宍戸今日は部活行かねーんだろ?侑士に連絡してみたらさあ、風邪で寝込んでんのに両親は旅行、彼女さんも旅行でひとりぼっちなんだって。今から家行くからさ、お前も一緒に行かね?』
ああ、確か忍足の彼女は高等部の2年で、今修学旅行なんだっけ。
俺はジローを振り返った。
「なんか今から、忍足の家に行くらしいんだけど。お前も行くか?」
「あー、おしたり休みって言ってたね」
行く行く、と立ち上がるジローに頷き、岳人に返事を返してケータイを切った。
……そういえば、あいつどこに行ったんだろ。
――お前は勝手にしろ。
「りょーちゃん?何キョロキョロしてんの?」
何か探してるの、というジローの言葉に少し笑ってみせてから、その肩を抱いて校門へと向かった。
****
「侑士はさあ、結構何でも溜め込むタイプなんだよなー」
「……がっくん、耳元で大きな声出さんといて……」
忍足の家に来るのはこれで3度目くらいだ。岳人は割と頻繁に来ているようで、勝手知ったる、という感じでキッチンで入れたコーヒーをみんなに配る。
「がっくん、俺砂糖ほしー」
「贅沢言うな。男はブラックだろ!」
甘党のジローは、えー、と文句を言いながらカップを受け取り、俺の隣に座った。ベッドの上では、肩にかかる長さの髪を情けなくも二つに結った忍足が、上半身だけを起こしてクッションを抱えている。岳人からコーヒーカップを受け取ろうとして、お前はこれ、と買ってきたポカリスエットを渡されていた。
俺は熱いコーヒーを一口だけすすった。
「もうちょっとしたら、宍戸が美味いもん作るからな」
「お前勝手に決めんなよ……」
部活のメンバーで集まると、大抵俺に調理役が回ってくる。まあ、好きだから別にいいんだけどさ。さっきキッチンを確認したら一通りの食材は残ってたけど、ここはベタにおかゆとかかな、と考えていると、岳人は自分の分のコーヒーカップを持ってベッドの端に座った。
「……んで?いつから寝込んでんの?」
「土曜日の夜……」
「親は?」
「もう旅行行っててん」
「彼女さんは旅行、今日からじゃねえの?」
「……」
詰問するような岳人の口調に、忍足はしゅんと下を向いた。熱があるせいか顔は赤く、しかも髪を二つに結んでいるので情けないことこの上ない。俺は少し可笑しくなった。これが「氷帝の天才」とかって女子にキャーキャー言われてる忍足侑士かよ。
「だーから、いっつもそういうんで喧嘩してんじゃねえの?お前があんまり何にも言わねーからさ」
「はいそーです……」
返す言葉もありません、と忍足はため息をついた。
大人びた外見のせいなのか、遊んでるだの何だのといろいろな噂が飛び交う忍足だけど、俺が知る限り今の彼女は中学に入って2人目だ。割と普通に、堅実なオツキアイをしてるんだと思う。
「彼女さんの前ではカッコつけときたいのもわかるけどさー」
「現在フリーのがっくんに言われても説得力ないわあ」
「何か言ったか?」
「何でもありません!」
ベッドの上でぴし、と姿勢を正した忍足に、俺とジローは顔を見合わせて笑った。
「だからさ、もうちょっと、みんな言ってくれてもいんじゃねーの?」
「……」
岳人の真面目な口調に、俺は思わず顔を上げる。目が合うと、岳人はにっと笑って、それから視線を忍足に向けた。
「弱ってんのはみんな同じなんだからさあ」
「……がっくん」
「つか、泣きたいときはおもいっきし泣けばいいんだよ。我慢して我慢して、そんで体調崩してりゃ世話ねーよな」
「……」
沈黙が落ちた。
隣のジローに目を遣ると、両手でカップを持ったまま、じっと下を向いていた。
「……がっくんの、言う通りなんやけどなぁ」
忍足はポカリスエットのペットボトルを立てた膝の上に乗せて、小さく言った。
「正直、キツいわ」
「みんな一緒だって」
「……」
俺はまたコーヒーを一口すすった。
「いいタイミングで引退してて、ホッとしたっちゅーかなあ」
「うん」
「これでまだ部活あってたら、嫌でもここにあいつおらんことわかってまうやん?」
「つかお前は一緒のクラスだったじゃん」
「まあそうやねんけどな」
俺は顔を上げた。忍足は正面の壁をじっと眺めている。岳人はコーヒーカップを持ったまま窓のほうを見ていて、ジローは相変わらず下を向いている。視線は交差しないけれど、何か穏やかな空気がそこには流れていて、普段何かといろいろなものを茶化して本心を言うことの少ない忍足がこんなにも自然に話すことができるのは、そのせいなのかもしれないなと思った。もちろん、熱のせいもあるのだろうけど。
「やっぱ俺は、部活のが重要やったていうか……なんていうか」
「何?」
「憧れやったっていうんかなあ、跡部のプレイが」
それは……わかる。
俺は膝を抱えた。横目でジローを見ると、やっぱり俯いたままだった。
「よーし、侑士、泣け!」
「何?がっくんのその平べったい胸貸してくれるん?」
「キモいからやだ。宍戸のを貸してやる」
「俺かよ!」
あはは、とジローも笑う。
俺はなんだか複雑な気分だった。嘘をついているような、隠し事をしているような。
ベッドから出て、胸貸してー、と擦り寄ってくる忍足に軽めの蹴りを入れていると、机の上に置かれたケータイが震えた。
「メール一件。えーと、あ、彼女さん」
一番近くにいたジローが手を伸ばしてそれを取る。
「おーい、勝手に見んなや!」
「あー俺も見たい」
「ちょお待てって!」
焦る忍足を無視して、メールボックスの表示を次々とスクロールさせていくジローの手元を岳人とふたりで覗き込んだ。彼女から、岳人から、ジローから、俺から、他の友達から。
「……あ、これ……」
ジローが小さく言った。今から3ヶ月近く前の日付の、保護されたメール。
「これ、俺も保護った」
「……俺も……」
俺もだ。心の中でそう言った。
関東大会の前日の夜に入ったメールだ。みんな同じ内容だったのに、一斉送信とかじゃなくてひとりづつに送られた、たったひとことだけのメール。自分からメールを送ってくることなんてほとんどなかった彼からの、力強いその言葉がやたら嬉しくて。
『明日、勝つぞ』
送信者は、跡部。
「……ごめん、俺、帰るわ」
「え?」
「悪い、ちょっと、用事」
俺は何だかわけのわからない不安に駆られて言った。
あいつは、ちゃんと俺の家にいるんだろうか。
半分景色に透けながら、それでも偉そうにふんぞりかえっているんだろうか。
「じゃ、俺も帰る!」
ジローが俺の腕をつかんで、にっこり笑った。
****
「どーかした?りょーちゃん」
「いや、別に……」
ちょっと速いよ、と後を追ってくるジローに、俺はようやく、少し早足になっていることに気づいた。
「……悪い」
「……」
意識してゆっくり歩く。そんな俺を覗き込むようにしながら、ジローはぽつりと言った。
「りょーちゃんも、キツいよね?」
「……」
「俺も……ちょっと、キツい」
黙ったままの俺の腕に腕を絡めて、ジローは少し迷うようにして、それから言った。
「あのさ」
「何だよ」
「俺さ、……跡部のことが、好きだったんだ」
「……」
「あ、違う違う。友達として、とかじゃなくてだよ?」
俺は驚いた。驚いたのは、ジローが跡部を好きだったという事実に対してではなくて、それを今ジローが俺に言ったことに対して、だ。
「……知ってた」
「え、マジで?もしかして跡部から何か……」
「聞くわけねえだろ。言うわけもねえし」
「そっかー」
バレバレかあ、と言ってジローは笑った。
「りょーちゃん鈍感だから、気づいてないと思ってたのに」
「あー、どうせ俺は鈍感だよ!」
ジローの首を掴んで引き寄せヘッドロックをかけると、ギブギブ、と笑いながら俺の背中を叩く。
忘れられない光景があった。
俺がレギュラー落ちして、長太郎に頼み込んで放課後の特訓に付き合ってもらってた時のことだ。その日は確か、レギュラーの奴らは早めに練習を終わっていて、俺は長太郎を捜しに部室に行った。何となく中に入るのが躊躇われて窓から覗き込んでみると、中にいたのはジローと、珍しく机に突っ伏して眠っている跡部だった。
夕暮れの赤い光が窓から射し込んで、ジローの金に近い淡い茶色の髪がきらきらと眩しかった。俺が目を細めていると、ジローはゆっくり跡部が眠っている机に近づいて、手を伸ばした。
そっと跡部の髪に触れて、それからふわっと笑った。幸せそうに。凄く凄く大切なものを見るような眼差しで、跡部を見つめながら。
俺はなんだか見てはいけないものを見てしまったような気がして、すぐにそこを後にしたのだ。
ああジローは跡部がめちゃくちゃ好きなんだなって、その時思った。
「そんでさ、俺、そのこと跡部本人にも言ったんだー」
「え」
「跡部、何て言ったと思う?」
「……さあ」
「知りたい?」
「……」
俺がまた黙っていると、ジローはいたずらっぽく笑った。
「ね、りょーちゃんも、跡部のこと好きだったんでしょ?」