そもそも、好きっていうのは一体どういうことなんだろう。
――跡部のことが、好きだったんだ。
そう言ったジローの言葉に、俺は違和感なんて感じなかった。
男なのに男を好きになるなんてありえない、だから、長太郎が俺をそういう対象にしてしまうのはおかしい。そんなことを思っておきながら、ジローが跡部のことを好きだということに何の疑問も抱いていなかった。結局俺はそういった想いを認めていたのだと今更ながらに気づいて、なんだか可笑しくなった。やっぱり俺は鈍い、ていうか頭が悪い。
その日家に帰ると、跡部は俺の部屋の椅子に(やっぱり偉そうに)座っていた。何でも、放課後は部活を覗きに行っていたらしい。俺たちが引退した後日吉が部長になったのだけど、他の部は軒並み練習をやめてしまう学祭前の一週間でも、変わらずに練習を続けているらしい。まあテニス部の出し物も大して準備が必要なものじゃないらしいし、何より日吉の気合いが違うんだと長太郎が言っていた。
で、跡部は唯一自分の声が聞こえる長太郎を捕まえて通訳をさせ、後輩指導に当たっていたらしい。長太郎に霊媒師とかイタコ紛いのことをさせていたわけだ。そりゃ俺たちの代の大会が……あんなだったし、指導熱心になるのもわかるけど。後で聞いてみたら、長太郎はいろいろといたたまれないみたいだった。何しろサーブのコントロールのことについてまで指導させようとするらしいからな。まあ確かに、1年はともかくとしてノーコンっぷりをよく知ってる2年にしてみれば、何でお前にそんな指導されなきゃなんねーんだ、って感じだろうな。しかもその指導が的を得たものだったりしたら、された方は複雑な気分だろう。イタコも楽じゃねえな。
さすが元部長。熱心だな、と言ってやると、跡部は笑って言った。俺がわざわざ早めに鳳を解放してひとりで帰ってきたのに、お前はあいつと一緒じゃなかったのか、と。
何だよコイツ。人の気も知らねえで。
……人の気も知らねえで?
定番の屋上。季節はやっぱり確実に冬に近づいているようで、吹き付ける風はこの前よりも少しだけ冷たい。明日の土曜から開催される氷帝学園の学園祭の準備も大詰めを迎えていて、校内の至る所から何かを打ち付けるような音や大声が聞こえてくる。グラウンドには舞台が設置されているようで、その周辺には人だかりができていた。
それをぼんやりと眺めながら、パックのコーヒーをすする。
「お前は準備ねえのか?」
「あ、はい、今のところ」
俺の隣で同じようにフェンスに手をかけていた長太郎は、にっこりと笑った。
話があると呼び出され、コーヒーで手を打った俺と長太郎がここに来て10分くらいだろうか。何の話かと思ったら、自分の跡部専属イタコ活動についての相談だった。サーブの練習については俺の口からいろいろ言えないのだと宍戸さんからも言ってもらえませんか、と情けなく頼んでくる長太郎に、俺は笑った。
好きだ、と。こいつに言われた当初は軽くパニックに陥っていろいろと過剰反応していた俺だけど、時間が経つにつれてそれを冷静に受け止められるようになっていた。少なくとも最初のときみたいに、アホみたいに顔を赤くしなくていい程度には。多分、こいつがあれ以来、そのことに関して俺に何も言わないからというのもあるんだと思う。
結局、俺がこいつに気を使わせてる、そういうことなんだろう。
――知っていて、ほしくて。
(……)
「なあ長太郎、聞いていいか」
「はい?」
「お前って……その、俺のこと好きなんだろ?」
「えっ」
敢えてグラウンドを見下ろしたまま言ってみると、長太郎がはい、と頷くのが視界の端に映った。
「それって、俺と付き合ったりとかしたいってことなのか?」
「え、……あ、それは、はい、……いつか、は」
「……ふうん」
付き合う、か。
俺はストローを咥えた。
誰かと付き合うってことは、つまりは自分の時間を割いて誰かと過ごすってことで、それは自分だけの自由になる時間を失くすことにほかならないんだと思う。完全に自分ひとりのものだったものを誰かと分け合う、それはどんな人にとっても少なからず不愉快なことであるはずだ(まあ不愉快って表現は適切じゃねえかもしんないけど。悪い、俺は語彙が少ねえんだよ)。だからその不愉快さと、誰かとその時間を分け合いたいって気持ちとを天秤にかけて、それでも一緒にいたいというひとをみつけられるかどうかなんだ、結局。
俺は以前彼女とあんまり思い出したくないような別れ方をして、それを思い知った。ほらあれだ、俺らくらいだと、やっぱり女と付き合うとかヤるとか(何を、とか聞くなよ)が一種のステータスになるみたいなとこがあるから、なんとなく付き合ってみたりしたんだけど。
ぶっちゃけ、テニスのほうが楽しかったのだ。
それを言ったら跡部とか忍足なんかは散々俺を馬鹿にしたけど(あいつらはステータスがどうだとかそういうのとは完全に別次元をいってるから余計ムカツクんだけど)、でも、そうなんだから仕方ない。だから、別れた後もそんなに落ち込んだりしなかった。まだそれほどその子が俺の生活の中に入ってきてなかったっていうせいもあるとは思うけど、感じたのは若干の物足りなさくらいで。……まあ、アレだよ、そーいうのができなくなったのが物足りなかったって、そういう意味。男なんだからしょーがねーだろ。
でもその時は確かに、その子のことを好きなんだと思ってたのにな。
(好き……か……)
――りょーちゃんも、跡部のこと好きだったんでしょ?
あの日そう聞いたジローに、何でそうなるんだよ、と俺は言った。
――お前って、自分の好きなものはみんなが好きだって思ってるとこあるよな。
――そんなことないよー!
――あるある。
俺が笑うと、ジローはぷうと頬を膨らませたが、それ以上は何も言わなかった。
「なあ」
俺は咥えていたストローを吐き出し、パックを床に落とした。
「お前は、何で俺のことなんか好きになったんだ?」
長太郎はフェンスの上に置いた腕に自分の顔をのせ、俺のほうを向いた。
「よく、わかりません」
「わかんねーのかよ」
「きっとあれだろうなあとか、そういうきっかけみたいのはあるんですけど」
俺が長太郎に顔を向けると、じっと俺の目を見て、それから笑った。
「理屈とかじゃないんですよ、多分」
それは、俺が以前部室で見た、ジローが跡部に向けた笑顔とよく似ていた。
「いつもいつも、気がつくと宍戸さんのことばっかり考えてるんです」
「……」
「それで、ここでこう想ってる自分に気づいてほしい、ここであなたのことばかり考えてる自分を知ってほしい、って」
宍戸さんだって、わかるでしょう?
そう言って長太郎はまた、笑った。
自分に気づいてほしい、自分を知ってほしい。
――お前、めちゃくちゃテニス強えーんだな!!
――誰だよてめえ。
――あ、俺?宍戸!宍戸亮!
1年生のときのことを、俺は何故だか唐突に思い出していた。
クラスも全然違う、しかもテニス部の新入部員は馬鹿みたいに多くて誰が誰だかよくわからなかったその頃から、俺はいつもあいつばっかり捜していた。
――跡部!
追いかけていることを。
ずっとずっと追いかけていることを、知ってほしいと。
(でもそれは、違う)
好きっていうのはどういうことなんだろう。
何度も同じ疑問を繰り返す。あまり回転のよくない俺の頭はパンク寸前だ。それもこれも全部ジローや、今隣でにへらと笑っている長太郎のせいだ。何だかムカついて隣の長太郎の頭を軽く殴ると、何するんですか、と情けない声を上げた。
こいつは俺を好きだという。
それは友達(てか長太郎は後輩なんだけど)としてではなくて、付き合いたい、という種類の好き。つまり長太郎は、俺と時間を分け合いたいということなんだろうか。
俺はとにかく、テニスが好きだ。
テニス以外のものに時間を費やすのが勿体無いと思うくらいテニスが好きで、そしてそれこそが前に彼女と別れた原因のようなものだったのだけど、でもそれを長太郎にあてはめてみると話は少し変わってくる。だって今の俺にとっては図らずも、テニスと長太郎は限りなく近いところにあるものだから。
――やります。やらせてください。
不動峰の橘に負けレギュラーを落とされたあの日、練習に付き合ってほしいと頭を下げた俺に、長太郎は力強く頷いた。
あのときのことは本当に感謝してもしきれないくらいで、それ以降俺はこいつに絶大な信頼を寄せるようになったわけだけど、でも、練習相手にこいつを選んだのは何も、こいつのサーブが馬鹿みたいに速かったからってだけじゃない。
目つきが悪いだの言葉遣いがキツイだのいろいろ言われて多分後輩からは怖がられていたんだろう俺に、何の警戒心もなく笑顔を見せてくれるこいつの存在を、俺が心地よく思っていたのは確かなのだ。
だけど。
――あなたが好きです。
俺はこいつが俺にしてみせたみたいに、想いを言葉にして泣くことはできない。
放課のチャイムが鳴った。今日は学祭前日ということで丸一日授業がなかったから、俺はいろんなクラスを覗いたりして(自分のクラスのたこ焼き屋の準備には人手が足りてるみたいだったからだ、別にサボってたわけじゃねえ)ずっとふらふらしていたんだけど、そろそろ教室に戻ったほうがいいのかもしれない。
そういや今日は跡部、どこにいるんだろう。
夜はだいたいウチにいて、朝もまあ一緒に登校することが多いんだけど、昼間から夜にかけてあいつがどこで何をしてるのかイマイチ不明だ。ケータイがあるわけでもないから、いつもどこにいるんだかさっぱりわからない。
グラウンド、それから視線を移して中庭、校舎を見回しているとふと、長太郎が身体を起こした。
「宍戸さん」
「あ?」
「宍戸さん、最近よく、そうやってキョロキョロしてますよね」
「……そうか?」
「誰を捜してるんですか?」
はっと顔を上げると、長太郎はすぐ近くから俺を見下ろしていた。
ヤバイ。
そう思う前に、長太郎の大きな右手がそっと俺の両目の上に乗せられた。
「ちょ……」
名前を最後まで言う前に、くちびるに暖かいものが重なった。