今になって考えてみると、彼はあのときから何かに気づいていたんではないだろうか、と思う。普段は彼の敬愛する先輩と同等の天然だけれど、でも、その先輩に関することになると敏感にいろんなことを感じ取る、そういう奴だったから。
――宍戸さん!!
ど、と音を立てて宍戸が倒れ込んだ。そのまま後ろにあったロッカーに背中を打ち付け僅かに目を細めるが、また俺を見上げ鋭く睨みつける。
――跡部先輩、やめてください!
――お前は黙ってろ長太郎!
その胸元を掴み上げもう一発殴ろうとした俺の腕を鳳が止めようとするのを、宍戸が怒鳴りつけて制止する。怒鳴られた鳳は、驚いたように俺から手を離した。
――悔しかったらやり返してみろ。
――……。
――おら、どうした。
その胸元から手を離して俺は身体を起こした。宍戸は背中のロッカーに手をついて立ち上がろうとするが、ふらふらとまたしゃがみこむ。当然だろう。
――ざまあねえな。
フン、と俺が笑うと、宍戸は悔しげにくちびるを噛んだ。その顔も身体も、連日の無茶な特訓のせいで傷だらけだ。
――やりすぎなんだよてめえは。限度を知れ、馬鹿が。
――うるせえよ!
――こっちが迷惑だって言ってんだよ!
俺は苛立ちを募らせる。宍戸と鳳が部活後の練習を開始して正確にどのくらいたったのかはよくわからないが、朝練にも部活にもきちんと出、その後場所を移して深夜まで特訓をし続けている宍戸は、明らかにオーバーワークだった。特にレギュラーを落ちた今は走り込み中心の基礎トレーニングばかりなのだから、体力的に続かないのは目に見えている。
黙っているつもりだったが、部活中ついに倒れた宍戸に、我慢することができなかった。
――やめろとは言わねえ。明日一日だけ休め。
それを言うためだけならもっと上手いやり方があるのだろうが、生憎俺はこの方法しか知らない。宍戸を殴った拳が、まだ少しだけ痺れていた。
――……休んでるわけにはいかねえんだ!
――てめえはどこまで頭が悪いんだよ!
しゃがみこみ、また胸元をつかんで拳を振り上げた俺を、宍戸は真っ直ぐに睨み上げる。それを受け止めて、俺は口を開いた。
――てめえがどこでヘタれようと、負け犬のまま終わろうと俺は知らねえがな。
――……。
――戻ってきたければ、少しは利口になれ。
宍戸の漆黒の瞳が、それでも不満を主張するようにじっと俺を見上げる。その中に俺が確かに映っているのを確認して、手を離した。
――跡部先輩……。
――鳳。お前は明日部活が終わったら速攻で帰れ。こいつに付き合うなよ。
すぐ後ろで呆然と俺たちの様子を見ていた鳳は、はっと気づいたように宍戸に駆け寄った。立ち上がる宍戸を支えようとして、離せ、と振りほどかれる。
――宍戸。
――何だよ。
行くぜ、と鳳を促して部室の外に出ようとした宍戸に、俺は背を向けたまま言った。
――来週の初め。正・準レギュラーと2年生以上のレギュラー経験者を入れた練習試合を予定してる。
――……。
――監督も来る。
――跡部……。
――明日同じことをしやがったら、どうなるかわかってんだろうな。
暫くの沈黙の後、宍戸の盛大な舌打ちが聞こえた。
――行くぞ長太郎!
俺が振り返ると、宍戸がドアの外に消えるところだった。丁度俺を振り返った鳳と視線がぶつかる。宍戸の漆黒の目とも、俺の青い目とも違う、戸惑いと確信とが混ざったような複雑な感情を如実に反映した、淡い茶色の瞳。
言葉を発することはなかったけれど、彼が何かに気づいたというなら、きっとあの瞬間だったのではないだろうか。
「……で?」
俺は貯水タンクの上から飛び降りて(いつも浮いているようなものだから衝撃などは全くないが)、フェンスに腕をついてグラウンドを見下ろしたままの鳳に近づいた。
「跡部先輩」
「何のつもりだ?」
明日授業の終わりのチャイムが鳴る頃、屋上にきてもらえませんか。そう鳳が俺に言ったのは、昨日の部活が終わる少し前だった。話があるのだと言う鳳に今では駄目なのかと聞くと、笑って言った。はい、明日でないと駄目なんです、と。
言われた通りきてみればこれだ。男2人で決して絵にはならないけれど、どう見てもキスシーン。何しやがる、とまたパニックに陥って鳳を殴り走り去っていく宍戸に気づかれないように、俺は慌てて貯水タンクの上に登るはめになったのだ。
「俺に何か話したいことがあったんじゃねえのか」
「え、……はい。っていうか、話してもらいたいことがあった、のほうが正しいかも」
俺の声のする方に鳳は身体を向けた。
「跡部先輩、ちゃんと来てくれてるかどうかわからなかったから……ドキドキしてました」
「……何かおかしくねえか、それは」
「も、もちろん別の意味でドキドキ、してましたけど」
目を閉じ、ふう、と大きく深呼吸する鳳を間近で見上げる。
「それで、どういうつもりなんだ」
精一杯苛立ちを抑えながら低く言うと、鳳は目を開けた。俺の目の辺りに視点を合わせる。
「確かめたかったんです」
「……」
何を、とは敢えて聞かなかった。
「で?確かめられたのか?」
「わかりません」
「わからない?」
「だって、俺にはあなたが見えない」
鳳は少し俯いた。
「あなたの顔も、表情も見えないんです。……だから、言葉にしてもらうしかない」
「……」
「先輩は、ずるいです」
「……鳳」
「ずるいです」
もう一度言って、暫く躊躇うようにしてから、鳳はまた顔を上げた。
決意を込めたような、淡い茶色の瞳をまっすぐ俺に向ける。
「跡部先輩は、宍戸さんのこと……」
「鳳」
俺の声に、鳳は身体を固くして、またぎゅっと目を閉じた。まるで親に叱られる子供みたいだ。何ビクビクしてやがる、怖がるくらいなら言わなければいいのに。そう思ってふと、笑った。
「鳳」
「……はい……」
幾分穏やかな声で名前を呼ぶと、鳳はおそるおそる目を開けた。
「俺が言わねえのは、言う必要がないからだ」
「……」
「……言っても仕方ないことだからだ」
「跡部先輩……」
この話は終わりだ、もう行くぞ。言ってその場を去ろうとすると、鳳は小さく言った。
「先輩は、それでいいんですか」
それでいいか、だって?
愚問だな。
「……じゃあな」
それだけ言った。
鳳は少し黙って、それからはっと思い出したように大声で言った。
「ま……待ってください!」
「何だよ」
よかった、まだいた、と胸をなでおろすようにする。俺は不機嫌さを露にして振り返った。
「せめて、ひとつだけ教えてください」
「……何だ」
「先輩は……どうして、その、ここに戻ってこれたんですか?この世とあの世って、そんなに自由に行き来できるものなんですか?」
「……」
確かに疑問に思ってもしょうがないだろう。俺はため息をひとつついた。
「やり残したことがあんだよ。それができないとあっちの世界に行けないらしい。そういう奴らがこの世にゴロゴロ残ってんだよ。で、いつまでも叶わずにヤケになって人を怖がらせたりすんだろ」
「やり残したこと……?」
鳳は首を傾げる。しかしその表情には、ある種の確信のようなものが浮かんでいるように見えた。このまま誤魔化すことだってできただろうが、ずるい、と言われておいてさらに逃げるのも癪だ。……クソ、この俺が『逃げる』だなんて。
俺は大きく息を吸い込んで、一気に言った。
「俺にとってのそれは、こうだ。”ある人間に、ある言葉を言ってもらうこと”」
ありえないことだけれど。