認めたくはないが、つまりはそういうことなのだ。

――辛いと思いますよ?

 あの、カミサマだか何だかわからない奴が言った言葉。構わないと思った。現に今までも、肉体的な苦痛ならいくらでも我慢できたし、精神的なものでも、どんな苦痛を受けようと耐えられる、と、思っていた。
 しかし俺を襲ったのは、外部から与えられるような苦痛ではなかった。むしろ「苦痛」ではなかったと言ってもいい。時折息ができなくなるほどの苦しさを言葉にするのは難しいけれど、それは、「虚無」というのに近いのかもしれない。何も受けることがない、という苦痛。今まで俺が経験したことのないものだった。
 この世界のあらゆる事象は、全て俺を素通りしていく。俺はこの世界では「いないもの」なのだから当然だ。冷たさを増した風は俺を冷やすことはなく、学校の廊下の影から突然飛び出してくる礼儀知らずな奴にぶつかられることもなく、コートの上に転がったボールが俺の足に当たることもない。俺の言葉はあの2人以外の人間の耳に届くことはなく、俺の姿に至ってはただ1人を除いて誰の目に映ることもない。素通りされる。それは物質的なことでもあるし、「時間」のような目に見えないものでもあった。
 例えば俺は今、14歳だ。誕生日を迎える前に死んだのだから。
 俺の誕生日の前に、向日と宍戸が15歳になった。どちらもまるで鬼の首でも取ったかのように得意げに俺に何だかんだと言ってきて、可哀相な奴らだと思ったのをよく覚えている。
 そして、もうすぐ忍足が15歳になる。
 けれど俺は14歳のままだ。この世界にいる限り、いつまでも。

 俺がこのままでも、彼らは1年が過ぎるたびにひとつずつ、歳を重ねていく。それは取り残されるということにほかならない。それを実感したとき、俺は動揺した。素通りされる、声に出した言葉もこの身体も通り抜けられてしまうけれど、俺という存在自体が、時間というものに素通りされてしまう。
 俺がいようとまいと時間というものは勝手に流れていくのだ。
 それを嫌というほど実感させられる苦しさに、一体どれだけの人間が耐えられるんだろう。だからこそきっとあのカミサマもどきはああ言ったのだろうし、はやく「やり残したこと」を終わらせてあっちの世界に行きたいと苛ついてヤケになる奴らがいるんだろうし、どんなに戻ってきたくても「死人がこの世に戻ってくるのは盆だけ」なんて取り決め(というのかはわからないが)ができるんだろう。

 それでもきっと、俺があっちの世界に行く日はこない。

 

 

 

 

 俺はテニスコート脇に立って腕を組み、ボールの動きを視線で追っていた。コート内で行われているのは日吉と樺地の試合。学園祭二日目に当たる日曜日、俺はほかにすることもなく、模擬試合を行う男子テニス部の様子を見に来ていたのだった。隣には鳳が立っている。
「更に上手くなりましたよね、ふたりとも」
「アン?当たり前だろ」
 小声の鳳に、俺様が指導してやったんだからな、と言ってやる。
「ていうか話したのは俺じゃないですかー!樺地はともかく、日吉なんて最初全然聞いてくれなかったし……」
 ぷ、と頬を膨らませる鳳に、俺はフンと笑う。
「それはてめえの言い方が悪いんだろ」
「そんなあ……」
 しゅんと下を向く。俺がため息をついて、まあいないよりはマシだ、助かってる、と言ってやると、鳳は顔を上げてにっこりと笑った。
「はい!」
「……」
 こういうところを宍戸も気に入っているんだろう、と思う。こんなことになるまで必要以上に鳳と話したことはなかったが、最近になって、こいつの人となりというものが多少わかってきたような気がする。
 そしてこいつがどんなに真剣に、宍戸のことを想っているのかということも。

「鳳、次……です」
 試合の終わった樺地が、鳳を呼ぶ。
「お疲れ!」
 鳳は小声で俺にじゃあ、と言うと、樺地に持っていたタオルを渡して日吉の待つコートへ走っていった。
 代わりに樺地が、鳳のいた位置に黙って立った。
「……」
 樺地と並んで立つ。違和感が俺を襲った。今まではずっと、俺の後ろに樺地が立つというのが当たり前だった。その慣れた気配をすぐ横に感じるというのは奇妙な感じだった。樺地は俺の隣には立たない。いつもすっと身を引いて、静かに後ろに立った。どちらが言い始めたことでもないのに、それが一番自然な形だったのだ。
「樺地」
 思わず呼んでみた。返事はない。
「……樺地」
 もう一度言った。何度言っても同じことなのに。
 俺は隣を見ることができなかった。

(……?)
 視界の端に、こっちに向かって手を振っている制服姿が映った。宍戸だ。
 俺は樺地から離れ、彼が呼ぶほうへ歩いていった。
 コート上の鳳がそれに気づいてちらりとこちらを見たのがわかったが、構わず宍戸に近づいた。

 

 

「お前ほんとにいっつも、テニスコートにいるのな」
 宍戸は感心したようにそう言った。
「もう地縛霊状態だよな」
「てめえにだけは言われたくねえな」
 いつもテニスコートに入り浸ろうとしてるのはどいつだよ。俺が睨むと、宍戸はうるせえ、と睨み返す。
「お前、クラスの出し物は?」
「今日はもう、材料なくなったから終わり。片付けも終わらせた」
 だから今日はもうすることがねーんだよ、と言って、宍戸は頭を掻いた。
「お前はいつまでもここにいんのかよ」
「悪いか」
「長太郎に迷惑かけてんじゃないだろうな」
「てめえにそんなこと言われる筋合いは、」
「部にばっか張り付いてても、あいつらに悪いだろ」
 だから、と言って宍戸は何故か怒ったように言った。
「だから、俺が相手してやるっつってんだよ」
「……」
「俺も暇なんだよ。付き合え」
 呆気に取られる俺に、宍戸はますます苛立った様子でもう一度言った。
「付き合えってば。……文句あんのかよ!」
「……別にねえよ」
 思わず普通にそう答えてしまう。
 宍戸は、そうか、と言って笑った。

 

 

 

 

「学祭ももう終わりかー」
 なんか早かったな、と宍戸は歩きながら、手にしていた空の紙コップを近くにあったゴミ入れに投げ入れた。辺りはすでに真っ暗だ。
「去年のが面白かったかも」
「……」
 テニスコートから少し校舎側に入ったこの場所には、全く人気がない。この時間はグラウンドで学園祭最後のイベントであるダンスが行われているはずだから、みんなそっちのほうに行ってしまっているのだろう。校舎を見上げても明かりのがついている窓はほとんどなかった。
 スピーカーからは、静かな音楽が流れつづけている。
「お前は行かねえのか?」
「別に興味ねえし」
 パートナーに自分の好きな奴を誘い、一緒に踊ることができればその相手と幸せになれるだとか、そういった浮かれた噂のあるダンスパーティーだ。去年までは確かこいつも、学祭までに相手を見つけるとか言ってジローや向日あたりと大騒ぎしていたはずなのに。そんなことを考えていると、宍戸は俺のほうを向いてに、と笑った。
「そういや跡部サマは去年も大変でしたよねぇ〜。去年と言わず一昨年も。女ってこえーよな」
「それこそ興味ねえよ」
 俺はフンと笑って、傍にあった木に手をついた。
「ダンス何時に終わるんだっけ?」
 宍戸が腕時計を確かめる。ダンスが終わると、花火が打ち上げられるのだ。
「ちょっと様子見てきてやるよ」
「あ!ずりーお前!」
 宍戸が喚くのを無視して、俺はそのまま宙に浮いた。木の幹に手を添えるようにして、するすると上に登る。すぐに一番上まで登り切った。
「……」
 すぐ下にテニスコート、その向こうのグラウンドは、設置された舞台を中心に照明で明るく照らされている。その周辺にぐるりと円になるように、人が集まっているのが見えた。まだ終わる気配はないようだった。
 高い場所にいるせいか、さっきまで間近で聞こえていた音楽が幾分小さくなったような気がした。どこかで聴いたことのあるメロディだ。
「お、なかなか綺麗じゃん」
「……おい!?」
 すぐ下で聞こえた声に焦って見下ろすと、枝につかまって、よ、などと言いながら登ってきていたのは宍戸だった。どうやら近くにあった電柱から乗り移ったらしい。
「何やってんだよてめえ……」
「だってお前だけずりーし」
「馬鹿と煙は高い所に登りたがるらしいがな」
「じゃあてめえはどうなんだよ!」
「知るか」
「知るかって何だよ」
 話しながら、宍戸は俺のいる枝まで登り切ると、体勢を整えて座った。その隣に俺も座る。
「うわー、人がちっせえなー!」
「高いんだから当然だろうが」
「跡部、『人がゴミのようだ』とか言ってみろよ」
「……誰が言うか」
「いや、絶対似合うし!」
 宍戸は笑い続ける。俺は不機嫌になって黙り込んだ。
「そういや、この曲ってあれだよな、”アンチェインド・メロディ”」
 ああそうだ、思い出した。映画のテーマ曲だ。『ゴースト』、死んだ男が幽霊になって恋人を守ろうとする……、
(馬鹿馬鹿しい)
 俺が笑ったのに気づかずに、宍戸は喋り続ける。
「あの映画さ、テレビで放送ある度に忍足から電話かかってくんだよな、見ろ見ろって。もう何回も見てんのにさ」
 あいついいかげんウザイ、と言って宍戸はふいに、俺のほうを向いた。
「……何だよ」
「お前は」
 じっと、その黒い瞳で俺を真っ直ぐに見る。

「お前はずっとここにいるんだよな?」

 音楽が止んだ。
 それと同時に、低い音が響く。振動は木を伝って、枝に座る宍戸の少し伸びた髪を微かに揺らした。
 花火だ。
 暗闇と交互に訪れる眩い光のせいで、宍戸の顔がよく見えない。
「……なあ」
「……」
「前、お前言ったよな、お前の姿を見せる奴をひとり選べって言われたって」
「……ああ」
「なんで俺を選んだんだ?」

 何故か、だと?

 こいつはなんなんだ。何のつもりなんだ。何も知らず何も気づかず、そして俺に凶器のような言葉を吐く。
 無性に腹が立って、俺は思わず言い捨てた。
「……少しはてめえで考えろ!」
 そのまま枝に手をつき、飛び降りようと身体を起こした。
「っておい、跡部!待っ……」
「!」
 俺を追おうとした宍戸が、バランスを崩した。
「宍戸!」

 

 伸ばした手はしかし、宍戸の身体を通り抜けていった。

 

 

 

back || top || next