――痛いんです。
俺よりも遥かに近い場所でそれを見ていたはずの鳳は、俺にそう言った。宍戸に一日だけあの無謀な特訓を休ませた、その日の放課後だ。
――すごく、痛い。痛くて、もどかしい。
――良心の呵責ってやつか?
自分の打った球で、自分の大切な人間を、相手が望んだこととはいえ、結果的に傷つけることになるのだから。
俺が尋ねると、彼は首を振った。
――違います。
――じゃあ。
――……こんなことじゃなくて、もっとほかにできることがあるんじゃないかって。思うと、痛いです。
――……。
――何もできないのは、キツいです。
そう言って、鳳は切なげに、笑った。
宍戸に関することには聡いくせに、あのときの宍戸がどれだけ鳳に救われていたかを鳳は知らない。宍戸本人だって気づいているかどうか。何もできない?馬鹿言ってんじゃねえ。宍戸が少なくとも残りのテニス人生を賭けて感謝しなければならないくらいのことをお前は奴にしてやったんだよ。勘違いもほどほどにしろ。
何もできないっていうのは、今の俺みたいなことを言うんだよ。
自分の非力に呆然とする馬鹿が今、ここにいる。
キィ、と微かな音をたててブランコが揺れる。
「宍戸さんは……?」
「まだ眠ってる」
鳳が座るブランコのすぐ傍に立った日吉が答えた。
俺はそこから少し離れたベンチに座っていた。ついさっきまで犬を連れた人やジョギングをする人で多少賑わっていた夜の公園には、今は俺たちの他に誰もいない。道を挟んで向かい側にある病院の、「夜間窓口」と書かれた蛍光の青い文字が、暗闇の中に淡く光って見えた。
「そっか……」
「あれだけの高さから落ちて脳震盪と軽い打ち身だけだなんて、流石だな」
しぶといと言われるだけのことはある、と言って日吉は鳳の隣に座った。
あの後。気を失って呼びかけに応えない宍戸を置いて、俺は鳳を捜した。ダンスには行かずにひとりで部室の片付けをしていたらしい彼を運良く見つけ、驚く彼を叱咤して何とか宍戸を病院へ運んだのだった。
「少し寝不足気味だったらしくて、そのまま眠りこんだみたいだな。起きたらもう帰っていいらしい」
「……」
「ご両親が、もう遅いから俺たちは帰っていい、だそうだ。先輩たちはもう帰った。それから、これも」
言って日吉は、制服のズボンの後ろポケットに無理矢理つっこんでいたらしい缶のミルクティーを鳳に差し出した。
「宍戸先輩のお母さんが。今度改めてお礼をしたいって」
「お礼なんて……」
鳳は缶を受け取り、俯いた。それを横目で見て、日吉は軽くため息をつくと立ち上がった。
「すぐ救急車を呼んで、俺たちとご両親に連絡を取れたんだから上出来だ」
「……ん」
「俺は片付けが残ってるから一度学校に戻る。お前はまだここにいてもいいから」
「……。いや、学校行くよ。先行ってて」
日吉はしばらく鳳を見ていたが、わかった、と言って踵を返した。
「日吉……」
その背中に鳳が声をかける。振り返った日吉に、鳳は顔を上げて笑顔を向けた。
「……サンキュ」
「……ああ」
日吉はそのまま背を向けて、足早に去っていった。
「跡部先輩」
日吉の姿が完全に消えたのを確認して、鳳が言った。俺はさっきまで日吉が座っていた、鳳の隣のブランコに座る。
「日吉が今日使ってたラケット、見ました?見覚えありません?あれ、跡部先輩の練習用ラケットなんですよ」
「……そうなのか?」
鳳が頷いた。
「日吉が今使ってるロッカー、跡部先輩が前使ってたところなんです。先輩、一本だけラケット忘れていってて。何度も返そうと思ったらしいんですけど、タイミングが合わないまま、……先輩が、いなくなっちゃって」
「……」
「返さなきゃって、その後、先輩の家に行ったんです。俺ついていったんですけど。そしたら先輩のお母さんが、あなたが使ってあげてって言って日吉にくれたんです。だから今でも、日吉のロッカーの中にあるんです」
「……そうか」
後輩指導に当たっていた日吉の姿を思い出す。3年がいなくなり部内の最高学年になって余裕ができたからか、以前の刺々しい雰囲気が幾分柔らかくなったような気がする。彼がいればきっとテニス部は大丈夫だろう。……俺が、いなくても。
「俺……」
鳳は、日吉に手渡された缶を両手で持って口元にあてた。
「一瞬、跡部先輩が宍戸さんのこと連れていっちゃうんじゃないかって思いました」
俺は驚いた。
「何馬鹿なこと……」
「でも、すぐそんなはずないって思いました。そんなこと先輩がするはずないって」
なんかわかるんですよね、と鳳は笑った。
「だって、同じひとに惹かれたんだから」
「……」
思わず黙る。自分の表情が彼に見えていなくてよかったと思って、そんな自分に腹が立った。
「先輩、言ってください」
「……何を」
「先輩は宍戸さんのことを好きなんですよね。すごく大切なんですよね。離れたくなくて、だからここにいるんですよね?」
俺のほうに向けた視線は、1ミリのずれもなく真っ直ぐに俺を捉えていた。
「その話はもう、終わったはずだろうが」
「終わってません!」
あまりに真剣な視線が痛かった。けれど、譲るわけにはいかない。
「終わったんだよ」
「どうして……!」
「言ってどうなるんだよ!」
お前に言ってそれでどうなる。俺は思わず声を上げた。どうせ誰にも聞こえない。
「どうなるとか、そういうことじゃなくて!」
ほとんど叫ぶようにそう言ってから、鳳は小さくつぶやいた。
「……俺が、知りたいだけなんです……」
「……鳳」
「聞いておかなきゃ、俺、一生後悔するような気がしたんです」
言って鳳は視線を背けた。
俺はゆっくり立ち上がった。
「……じゃあお前が俺だったら、言えるのか?」
それが第三者であっても、例えば本人であっても。
この世界にいないはずの人間の想いを、誰かに残すような真似ができるのか?
「俺の気持ちがわかるんだろ」
鳳は答えずに、ただ黙ってまた、ブランコを揺らした。
ある人間に、ある言葉を言ってもらうこと。
俺があっちの世界に行くための必要条件。
うまくできているものだな、と思う。それは聞けるはずのない言葉であり、一番聞きたい言葉であり、同時に聞いてはいけない言葉だった。
(連れていくんじゃないかと思った――か)
自宅のベッドで何事もなかったかのように眠る宍戸を、その枕もとに座って眺めていた。微かに寝息を立てる口元に指先を伸ばしてみる。指は音もなく、その顎を通り抜けた。
(……)
俺は寒気を感じた。手を伸ばしても落ちていく宍戸の腕を掴むことすらできなかった、あのときの恐ろしさが鮮明に甦る。
「……ん」
小さく声を上げて、宍戸が目を開けた。まだ相当眠いようで、ふわわ、と呑気にあくびをする。視線を少しだけ彷徨わせ、傍らに座る俺に気づいて少し笑った。
「今何時だ?」
「夜中の3時」
「ふーん」
「……寝すぎなんだよ、お前」
「普通だろ」
「病院でもあれだけ寝てたじゃねえかよ。ジローかてめえは」
「夜中には普通眠くなるもんなんだよ」
そう言ってから、宍戸は自分を覗き込むように見ている俺をじっと見上げた。
「……何だよ」
「なんかちょっと、余裕ない顔してるぜ?」
珍しいもの見た、と言って宍戸はにやりと笑った。俺は苛立って眉を顰めた。
「怒んなって。悔しかったら殴ってみろよ、……あのときみたいに」
「……」
俺は口を噤んだ。
「んじゃ俺、朝まで寝るから」
宍戸はそれに気づかないように、またひとつあくびをして両手で目をこすった。
「宍戸」
「あ?」
閉じかけた目を、もう一度開ける。夜の闇に同化する深い漆黒の瞳。
その目に映るものを確かめたくて、俺は顔を近づけた。しかしそこには、俺は映っていなかった。
「……ちゃんと俺が見えてるか?」
宍戸はしばらく俺を見ていたが、やがてすっと手を伸ばした。俺の顔のあたりで止まるかと思ったそれは、顔を通り抜けてさらに奥で止まった。
「このへんが、俺と違って出来のいいらしい脳味噌だろ」
「……」
それから少し腕を引いて、俺の顔のあたりをなぞるように辿っていく。通り抜けるか通り抜けないかの微妙なラインで。
「ここが眉だろ。んでここが目、ここが口」
「……」
「ここがほくろ」
触れられてはいないのに、宍戸の指先が通った場所にぬくもりが残っていくような気がした。
「見えてるって、ちゃんと」
そう言って、宍戸は少し笑った。
「だから、そんな顔すんなって」
両腕を上げる。その手で俺の頬を挟むようにして、まっすぐに俺の目を見上げた。
「……お前は泣くな。しゃんとしてろ」
「……。誰も泣いてねえよ」
「どーだか」
また少しだけ笑って、もう寝る、と宍戸は腕を下ろす。
閉じていく瞼に、俺は引き寄せられるように顔を近づけた。
「……」
宍戸は微かに目を開いたが、何も言わずにゆっくりと目を閉じた。
それを確かめて、俺は薄く開いた宍戸のくちびるに自分のそれを寄せた。
そのくちびるが触れ合うことはなかったけれど。
このまま時間が止まればいいと思った。