彼の手をいつも見ていた。
 力強くラケットを握りしめる手。時に俺を殴る手。たまにピアノなんて、その気性におよそ似合わないものを弾く手。
 形のよい、細く長い指先を持つ、俺の手とは全然違う手。俺には掴めないものを掴むことができる手。
 だけど俺は知ってる、その手がいつも、ささくれやマメでいっぱいだったこと。いつも見ていたから知ってる、それが早朝のコートでの自主練習でできたものだということ。
 青学との試合の後、その手が手塚の手を掴んだまま高々と上げられたのも。そして学校に戻った後、誰もいなくなった部室の壁に何度も打ち付けられていたのも。俺は見ていた。いつも、見ていた。

 その手が、夜毎、俺の髪のあたりに優しく、触れる。
 彼は俺が起きていることに気づいていないんだろう。触れるといっても触れられた感触はないのだけれど。
 俺が寝不足だったというのなら、きっとその原因はそれだ。

 夜中に彼の気配を感じる。そして目覚めた時に彼が必ずそこにいることに途方もなく安心する。
 俺はそんな自分を、もう否定することができなかった。

 

 

 

 

「跡部先輩は……今日もきてないみたいです」
 長太郎は俺の表情を伺うようにしながら、そう言った。

 放課後のテニスコート。俺は制服のまま、丁度休憩中だった長太郎をコートの外に呼び出していた。俺が長太郎と直接話すのはあの、……屋上でキスをされた学祭前の放課後以来だ。長太郎のほうも気まずいのか俺に話しかけてくることはなかったし、そもそも部活がないと会う機会自体が少ない。
「ふーん」
 別に跡部のことを聞きにきたわけじゃなかったのに、真っ先にそれを言う長太郎に苦笑する。
「あ、あの、宍戸さん……」
「バーカ」
 何を話したらいいかわからない、といった感じで俺を見てくる長太郎の頭を軽く叩く。
「あのっ……」
「もういいよ。気にしてねえし。てかお前、俺が木から落ちたとき救急車呼んだりしてくれたんだろ。悪かったな」
 間抜けなとこ見せちまったんだな、激ダサだぜ。俺が笑うと、長太郎は首を振った。
「跡部先輩が、俺を捜しにきて」
「……。ああ」

 木から飛び降りようとした跡部を追いかけようとして、俺はバランス崩したんだっけ。
――少しはてめえで考えろ!
(……)

「俺、宍戸さんに謝らなきゃいけないことがあって」
「謝る?」
 神妙な様子で長太郎は俺のほうに顔を向けた。
「あの、金曜日の屋上で……」
「あー、もうそれはいいって言ってんだろ」
「そうじゃなくて!……あのとき、屋上に」
「?」
「跡部先輩、いたんです」
「……」
 ごめんなさい、と、強く目を閉じて長太郎は頭を下げた。
「何に対して謝ってんだよ」
 俺が笑うと、長太郎は顔を上げた。
「だって」
「もういんだよ」
「いい、って……」
 俺はまっすぐに長太郎を見上げる。それを受け止めて、長太郎は何かを察したのか、ふと笑った。
「…そう、ですか」
「ごめんな長太郎」
 ごめん、俺多分、気づいてしまった。気づきたくは、なかったけど。
「宍戸さんこそ、何に謝るんですか」
 少し俯くようにして、長太郎が言う。俺はその大きな背中を思い切り叩いてやった。
「痛!」
「男なら我慢しろ!」
「……はい」
 長太郎はちょっとだけ泣きそうな顔で笑った。俺はそれに気づかないふりをして、腕を伸ばしてその髪をくしゃりと撫でた。

 コートの隅で、日吉が後輩に指示を出しているのが見えた。その姿が去年の跡部と重なる。長太郎と並んで立ったまま、それをぼんやりと眺めていた。
「跡部先輩は、いつもどこにいるんですか?」
「夜から朝までは俺のとこにいるんだけど。昼間は知らねえ。放課後は大体コートのとこにいたみたいなんだけどな」
 どこに行ってしまったんだろう。長太郎の話だと、学祭後一度もここにはきていないのだという。
(……)
 ここは、今の彼にとって数少ない「居場所」だったはずなのに。

 辛いのだ、と思う。
 誰にも姿を見られることがなく、誰にも声を聞かれることがない。俺は初めはそれがなんだか面白そうだと思ったんだけど、そんなわけがあるはずない。だって、「お前はいなくてもいいんだ」と四六時中言われているようなものなんだ。この世界に、お前の居場所はないんだと。
 その彼が唯一自分の存在を確かめられる場所、それがテニスコートだったはずなのに。
 地縛霊なんて言って馬鹿にしたけど、俺はじっとコートを見つめていた彼の姿を忘れることができなかった。本当に本当に、大切なものを見るような眼差しで、コートを見つめていたその姿を。
 きっと、テニスがしたいのだと、思う。その気持ちは多分誰よりもよく、わかる。

 じゃあ、彼がその辛さから解放されるにはどうしたらいいんだ?
(やっぱり、あっちの世界に行ってしまったほうが、あいつは幸せなんだろうか)
 そう考えて、俺はまた、足元に暗くて深い穴が開いていくような感じがした。ぞっとした。跡部の死の知らせを聞いた、あのときみたいに。

「長太郎」
「はい?」
「お前、跡部から何か聞いてねえか?」
「……え?」
 首を傾げる長太郎に、俺は一気に言った。
「あいつさ、やり残したことがあるって言ったんだ。それができないとあっちの世界に行けないんだって。それって何なんだ?何をしたらあいつはあっちの世界に行けるんだ?」

「……」
 長太郎の表情を見て確信する。こいつは何か知ってる。
「知ってるんだろ。教えろよ」
「……知ってもいいんですか?」
 静かに、長太郎は言った。真剣な眼差しだった。
「……ああ」
 頷いた俺に、長太郎はそれでも迷うようにしていたが、やがて跡部先輩ごめんなさいと小さく言い、意を決したようにひとつ息を吸った。

 

 

 

****

 

 

 

「また寝てんのか?」
「りょーちゃん!」

 俺は危うく踏みつけてしまいそうになった小さな身体の傍にしゃがみこんだ。踏みつけられそうになった本人はそれをさして気にするふうでもなく、起き上がってにっこり笑う。中庭は木が茂っていて日当たりがあまりいいとはいえず、グラウンドよりも気温が少し低いような気がした。
「お前そろそろ外で寝るのやめねえと、風邪ひくぞ。ジロー」
「まあねー」
「帰って寝ればいいだろ」
「んー今日はさ、ちょっと部活行ってみたんだよね」
「そうなのか?」
 俺もさっき行ってきたとこだけど、と言うと、ジローはごそごそと自分のリュックを探りながら言った。
「でもすぐ帰ってきちゃった」
「何で?」
「んー……」
 あったあった、とまたポッキーの箱をリュックから取り出す。
「日吉がね、すっごい真面目に部長さんやってたから邪魔しちゃ悪いかなと思って」
 食う?と差し出されたポッキーに手を伸ばす。ジローもそれを一本口に入れた。
「邪魔ってことはねえだろ」
「うん、邪魔っていうか……」
「?」
「日吉がさあ、跡部の練習用ラケット使ってたんだ」
「……」
 なんか、我慢できなくて。言ってジローは笑った。
「あ、別に日吉がどうとか言うわけじゃなくて。たださー、あそこって、跡部の場所だったのにな、とか思ったらなんか、……」
 俺も先輩としてまだまだだよなー、と言って、ジローはもう一本、ポッキーを口に入れた。

「……りょーちゃん」
「ん?」
 無言のまま並んで座りひたすらポッキーを食っていた俺たちの沈黙は、ポッキーがなくなってしまったことによって終わった。
「俺の秘密聞いてくれる?」
「秘密?」
 寒空の下付き合ってくれたお礼、とかなんとか言いながら、ジローはいたずらっぽく笑った。
「ね、りょーちゃんのファーストキスって誰?」
「唐突に何だよ……」
 俺は記憶を辿る。前の彼女だったか、それともその前にゲームか何かのなりゆきでしてしまったどっかの女の子だったか。考え込んでいると、ジローは楽しげに言った。
「俺ね、ファーストキスって跡部なんだ」
「……え」
「えへへ、ま、俺が一方的にしちゃったんだけどさー!」
「……」
「これが俺の秘密。トップシークレット!」
 俺が黙ったままでいると、これってちょっとよくね?とジローは笑った。
「何年たっても思い出すよ。生まれて初めてキスしたのが跡部だったこと。すっげー近くで見た、びっくりしたみたいな青い目がビー玉みたいでめちゃくちゃキレイだったことも。ずっとずっと覚えてる」
「……」
「跡部がいなくなっても、忘れないよ……」
「ジロー……」

「りょーちゃん」
 ジローはそのまま、俺の肩に顔を押し付けた。
「俺、跡部に会いたい」
「……」
「跡部の声聞きたい。跡部のテニスするとこ見たい。跡部に起こしてほしい。怒って、しょうがねえなって言ってほしい。笑ってほしい」
「ジロー……」
「会いたい、会いたい、跡部に会いたいよ……」
 言ってジローは俺の首に腕を回して引き寄せぎゅっと抱きついて、肩に顔を埋めた。泣いているのかと思ったけど、泣いてはいないみたいだった。きっと泣けないのだ。
「会いたい。会いたくて、苦しい」
 会いたい。何度も繰り返す小さな呟きに、俺も胸が苦しくなって、ジローの背中に腕を回して抱きしめた。抱きしめたからって苦しみがなくなるわけじゃないけど、それでも少しでもその苦しさが和らげばいいと思った。
 跡部がいなくなってから、ジローは一度もこんなことを口にしなかった。俺たちの前で泣くこともなかった。いっそ穏やかなくらいで、俺はもう、彼のなかで全ては解決してしまったのだと勘違いしていた。やっぱり俺は鈍いんだ。そんなことあるはずない。
 嫌なものは嫌、欲しいものは欲しい、そして好きなものは好き。思ったことをそのまま素直に口にできるジローの強さが、俺はいつだって羨ましかったのに。それすらできずにいたジローの痛みが伝わってきて、俺はジローを抱く手に力を込めた。
「なあ」
「ん?」
「跡部の、どこが好きだったんだ?」
 もぞもぞと、腕の中でジローが動いた。
「性格が悪いとこ」
「……」
「それから、口がめちゃくちゃ悪いとこ。根性が捻じ曲がってるとこ」
 ジローは顔を上げる。嬉しそうに話す様子を、俺は呆気に取られたまま見ていた。
「あと、俺様なとこ。我侭で、すぐ手が出るとこ。いつも人をバカにしてるとこ」
「それって好きなところ、なのか?」
「うん」
 にこっと笑ってジローは頷いた。
「それと、ほんとはまっすぐで、綺麗なとこ。全部。……全部!」


 ぜんぶ。


 俺は眩しくて目を開けていられないような感覚に襲われた。実際、ジローの顔を見ることができなくて、もう一度ジローの身体を抱きこんでその肩に顔を伏せた。
 教えてあげたかった。跡部はすぐそこにいるって。変わらない、人を小馬鹿にしたような顔で、それでも愛おしそうに、コートとか部室とか、試合やってるみんなとかを見てるんだって。だけどそれを言ったところでジローには見えない、どんなに目を凝らしてみても。どこで寝ていたって跡部の足音に気づくような敏感なそのセンサーは、もうあいつを捉えることができない。それを分かってて、教えることはできない。できないんだ。

「今でも、好きなのか?」
 やっぱり胸が痛くて、背中を撫でてやりながら尋ねると、ジローは大きく頷いた。
「うん。大好き」
「……」
「そんな急に、忘れられるわけない」
「……そうだな」
「りょーちゃんも、でしょ?」
「……」
 突然の言葉に俺が苦笑すると、ジローは顔を上げた。
「今度は逃げないんだ」
 俺がいつ逃げたよ、と金色の頭を軽く小突くと、ジローも笑った。

 そうだ。多分俺は、認めていなかったのだ。今ならわかる。現実を現実として受け止めようとしたみんなとは違って、俺は、逃げた。逃げようなんて思っていなかったけど、多分心が、勝手に逃げた。
 だって変わらなかったから。俺は跡部と同じクラスになったこともない、試験前の部活停止期間なんかは全く顔を合わせなかったりするのだって当たり前で、だから少しくらい俺の視界に入っていないからって、慌てることなんか、うろたえることなんかなかったんだ。そうやって目を背けた。だから平気だった。
 逃げたのは、彼がもういないのだという事実から。そして、自分の気持ちに向き合うことから。

 近づけられるくちびるに、何故あのとき俺は、黙って目を閉じたのか。

「……今さら気づいたって、遅くねえか」
「でも、認めないと始まらないし、終わんないよ」

 ……終わる?
 俺は思わずジローの肩をつかんだ。
「なあ」
「ん?」
「跡部が最後に聞きたかった言葉って、誰のどんな言葉だと思う?」

――ある人間に、ある言葉を言ってもらうこと。それが「やり残したこと」、らしいです。
 長太郎は、そう言った。

「……」
 ジローはしばらく驚いたような顔で俺を見ていたが、やがて困ったように笑った。
「りょーちゃんずるい。それ俺に言わせんの?」

 俺は自惚れてもいいんだろうか。
 たったひとり、姿を見せられる人間に俺を選んだ跡部。
――少しはてめえで考えろ!
(……)

 そのとき、俺たちの目の前にテニスボールが1個落ちてきた。きっとヘタクソな一年生が打ち損ねたボールだろう。
(――あ)
 それを手に取ったとき、俺の中にある考えが浮かんだ。
(もしかしたら……)
 できるかもしれない。ジローと跡部を会わせてやることが。跡部に……テニスをさせてやることが。
「ジロー」
「うん?」
「明日部活に来い。絶対に!」
「え?」

 驚くジローを置いて立ち上がると、俺は手にしたボールを強く握りしめた。


 

 

 

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