俺がどんなに彼のテニスに憧れたか、彼は知っているのだろうか?

 

 

 

****

 

 

 

「……」
 翌日の放課後、誰もいなくなった教室で、跡部は俺を見下ろし腕を組んで眉根を寄せた。
「だーから、俺の中に入ってみろって言ってんだよ」
 いつものように彼がどこかに行ってしまわないよう、あらかじめここに残っておくように言っておいたのだった。話がある。改まってそう言った俺に跡部は何事かと思ったのだろうが、昨日拾ったテニスボールを床について弄びつつそう言った俺の言葉に怪訝そうな顔をする。黙ったままの跡部に俺は苛立ってもう一度言った。
「聞こえてんのか?俺ン中に入れって……」
 そこまで言って、俺は何かあらぬ誤解を受けているんじゃないかとふと気づき、焦って説明を加えた。
「いや、だからさ!ほら、『ゴースト』の映画でもあんだろ。霊媒師の中に幽霊の男が入んの。憑依っていうんだっけ?あれ!そしたらお前、物に触ったり喋ったりできるだろ。俺の身体で、だけど」
 俺が一気に言うと、跡部はフン、と笑った。
「バーカ。俺はお前ほど馬鹿じゃねえよ」
「……んだと」
「お前ごときが思い付くことをこの俺様が考えつかないわけがねえだろ」
「……」
 いいからこいつを殴らせろと訴える右脳をなんとか左脳で制し、俺は震える拳を握り締めて自分を落ち着かせながら、テニスボールを手にとって座っていた机の隅に置いた。
「……じゃ、やってみたのか?」
「当たり前だ」
「んで?」
「無理だった」
「無理……?」
 ああ、と跡部は頷いた。
「弾かれた。何人か試してみたけど駄目だ」
 その辺を歩いてた猫とかでも試したんだがな、と言って、跡部は俺の向かい側の机に座った。
「え……なんで」
「さあな。まあ人間の身体ってのは元々、異物を排除するようにできてるわけだからな。そういうもんなんだろ」
「……」
 俺は黙った。せっかく、本人にではないとはいえ跡部とジローに話をさせてやることができると思ったのに。……跡部にテニスをさせてやることができると思ったのに。
 諦め切れずに俺は食い下がった。
「でもそれはお前が入ってこようとしてることを知らない奴だったからじゃねえのか?こっちに受け入れる準備があれば何とかなるんじゃ、」
「じゃあ、試してみるか?」
 跡部はゆっくり立ち上がった。
「多分、痛いぞ」
「……いいぜ。やってみろよ」
 俺がじっと見上げると、跡部はふうと息をついて、それから俺に歩み寄った。
「……」
 手を伸ばし、それから俺の肩のあたりに頭を近づける。意味もなく緊張して目を見開いたままでいると、その半透明な身体が俺の身体に沈んだ、ように見えた。
 その瞬間。
「いてっ!」
 ばちん、と目の前に火花が散ったような感じがして、頭を殴られたような痛みに俺は思わず仰け反った。手をついていた机が揺れ、上に置いていたテニスボールが床に落ちた。
 俺と重なっていた跡部の身体が、すっと俺の外に出てくる。
「……だから言っただろ」
「跡部……」
 皮肉げにそう言って、跡部は笑った。床に転がったテニスボールを蹴ろうとして、やはりそれを通り抜けていく彼のつま先を見ながら、俺は居たたまれない気分になった。嫌だ。もう一度、こいつにテニスをさせたい。……こいつのテニスが見たい。
「諦めんなよ!」
「……」
「今のはちょっと、俺の心の準備が足りなかったんだよ。やれるって!」
「……宍戸」
「異物を排除するようにできてるっていうんなら、異物じゃなくなればいいんだろ」
「……」
「お前を俺の一部だって思えばいいんだよな?」
 何だか恥ずかしいことを言っているような気がしたけど、俺は必死だった。絶対、諦めたくない。
 跡部は暫く黙っていたが、やがて少しだけ頷いた。
「……わかった。じゃあ、目を閉じてろ」
「ああ」
 俺は目を閉じた。近づく気配を感じる。
「何も考えるな」
「……おう」
「身体の力を抜いて」
「……」
 俺はなんだか妙な気分になって、可笑しくなって少しだけ目を開けた。途端に不機嫌そうな跡部と目が合う。
「何笑ってんだよ」
「いや、なんか……」
 悪い、と言って俺は笑うのをやめ、再び目を閉じた。
「……入るぞ」
 頷いて、大きく息を吸い込んだ。

 

 それはとても不思議な感覚だった。
 すうっと、何か暖かいものが流れ込んでくるような感じ。さっき感じた痛みは全くなくて、俺は俺の中に入ってきた「俺ではないもの」に、俺の五感の全てを委ねた。
 俺の意識は確かにはっきりとしていて、でも、もうひとつの意識が俺の隣、すぐ側にあるような。二重人格とかってこんな感じなのかもな、とぼんやり思っていると、自分の意志ではない力で、自分の手が動いた。
 俺の手はゆっくりと俺の目の前に上げられ、握られ、そして開かれた。
「……」
 視界の隅に、さっき机から落ちたテニスボールが映った。床にしゃがんでそれを拾い上げる。黄色いそれは確実に指先に触れ、ころんと手の中に転がった。
 嬉しい。
 言葉としてではないけれど、跡部の感情がそのまま感情として俺の中に流れ込んでくる。意地だとかプライドだとか、そういうフィルターを通さずに直に感じる跡部の感情。温かいと思った。何だか泣きたくなった。
 ボールを手の上で転がしながら跡部は声を出した。
「宍戸」
 変な感じだった。俺の声なのに、喋っているのは俺じゃない。跡部の感じた違和感も伝わってくる。
「宍戸」
 もう一度言った。俺も声を出そうとしたが、出なかった。返事のしようもないので黙っていると、跡部は俺の声で、フンと笑った。
「何泣きそうになってんだよ」
 ……そうか。俺の感情もそのまま跡部に伝わるんだ。俺はうるせーよ、とひとり思った。でも、怒る気にはならない。だってずっと、嬉しい、という跡部の純粋な感情が、俺に直接伝わってくるから。
「じゃあ、行ってもいいか」
 俺は心の中で頷いた。

 

 

 

 

 放課後のテニスコートでは、いつも通りの練習が行われていた。後輩に指示を出す日吉。コート内で何事か話をしている長太郎や樺地、レギュラーたち。日吉のすぐ傍に立っていたジローが真っ先に俺の姿を見つけ、手を振りながら駆け寄ってきた。
「りょーちゃん、遅い!」
「……」
 息を少し切らすようにして、ジローは俺を見上げる。
「部活行こうっていうから、おしたりとがっくんも連れて来たのにさー。俺クタクタ。もう2試合もしたんだぜー!」
 てかやっぱり日吉強くなったよなー、と笑うジローに、俺の身体の跡部は黙ったままだった。
 何か言ってやれよ。そう思うけど声には出せない。もどかしく思っていると、跡部は手を上げて、ジローの金色の頭をくしゃりと撫でた。
「……りょーちゃん?」
「じゃあお前は、そこで俺を見てろ」
「うん……?」
 言ってもう一度その髪を撫でると少しだけ笑い、名残惜しげに手を離して、コートの外で岳人と談笑していた忍足に視線を向けた。
「忍足!」
 呼ばれた忍足は顔を上げる。わりと元気になったみたいだな、彼女のおかげなんだろうか。そんなことを考えていると、跡部は座ったままの二人の傍に歩み寄った。
「試合、しねえか」
「俺と?シングルス?」
「ああ」
「ええけど、お前制服やん。ラケットとかは?」
「あ、じゃあ俺の使えよ」
 岳人が自分のラケットを差し出す。それをしっかりと受け取る。また跡部の気持ちが俺の中に流れ込んできて、俺は胸が痛くなるのを必死で堪えた。
「日吉、コート使ってええかー?」
「構いませんよ」
「あ、樺地審判してくれへん?」
 忍足がコート内にいた樺地に声をかけた。ウス、と頷く樺地に、跡部は手に持っていたさっきのテニスボールを手渡した。
「これ、持っててくれるか」
「ウス」
 返されたいつもの返事に、跡部は笑うと、コートの中に脚を踏み入れた。

 

「なんか宍戸……」
「跡部みたい」
 ジローがそう呟くのが聞こえた。

 身体が軽かった。身体を動かしているのが跡部というだけでこんなにも違うのかと、俺はなんだか悔しくなった。跡部のほうはもしかしたら、使い勝手の悪い俺の身体をじれったく思っているのかもしれないけれど、そんな苛立ちのようなものは俺の意識の中に流れ込んではこなかった。ただ、夢中だった。夢中で、忍足の打つボールを追いかける。段々と気分が高揚してきて、でも俺にはもう、それが跡部の意識なのか俺自身の意識なのか区別がつかなかった。
 俺の身体で、跡部がプレイする。
 あんなに憧れた跡部のテニス。
 もしかしたら俺は、跡部にテニスをさせたかったのではなく、こうやって跡部に自分の身体でテニスをしてもらいたかったのかもしれないなんて思って、少しおかしくなった。夢、みたいだった。
 けれど一方で、自分が自分の身体から出られないことを悔しく思った。見たかったのに。もう一度、この目に焼き付けておきたかったのに。

 

「宍戸、……」
 試合は跡部の勝ちだった。忍足は疑問だらけの顔でネットに近づいてくる。練習で一番跡部と対戦していた忍足は、身を持って何かに気づいたんだろう。
 ジローと岳人がコートの中に入ってくる。ふたりも、何か釈然としないような表情をしていた。樺地の隣にいつのまにかいた長太郎が、俺の方を見て何か言おうとするように口を開いた。あいつは目敏い、きっと気づいたんだろう。跡部もそれがわかったようで、長太郎のほうに顔を向けて少しだけ首を振った。
「お前……」
 忍足は、俺の表情を伺うようにして見下ろす。
「……跡部?」
「何言ってんだよ、あいつはもういねえだろ」
 自分の声で聞かされたその言葉に、俺の心が重くなったのがわかった。
「せやけど……いつのまにか、似てきたなあ跡部に」
「そうか?」
「ああ。おもろかったわ」
 忍足の差し出す右手を握り返して、跡部は笑った。
「俺も、おもしろかった」

 

 

 



「そろそろ元に戻るか」
 亮、ごはんよ、と。階下から聞こえた声に反応して、跡部はベッドから身を起こした。枕もとに置いたテニスボールが床に転がり落ちる。
 家に帰ってからずっと、跡部は俺の身体のままベッドに身を横たえてじっと目を閉じていた。何を考えているのかまでは俺にはわからなかったが、流れ込んでくるのは心地よい疲労感と、どうしようもなく満たされたような感情だった。
「出るぞ」
 急に視界がクリアになった。背中に触れるシーツの感触がはっきりと自分のものになる。俺の身体から、跡部の身体が出ていくのがわかった。さっきまですぐ近くにあった温もりが失われたような感じ。
「飯、行ってこいよ」
 跡部は立ち上がって、俺に背をむけたまま言った。
「俺はちょっと、外に出てくる」
「……。ああ」
「それから」
「?」

「……ありがとう」

 そのまま振り返らずに、跡部は窓の外に消えた。
 初めて聞いた、その言葉。

「亮ー?できてるわよー?」
「ごめん、いらねえ!」
 俺は叫んでまたベッドに寝転がると、枕に顔を埋めた。



 その日、俺は跡部が死んでから初めて、泣いた。



 

 

 

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