完全に記憶から消し去ってしまうことと、いつまでもその記憶の中に留めておくこと。自分が残される側の立場だったなら、当然後者を選ぶだろう。苦しくても決して忘れたくない、いつまでも覚えていたいと、そう願うはずだ。
 けれど、残していく方の立場で考えなければならなくなった今、思う。早く忘れてくれたらいい、忘れて、いずれ訪れるだろう幸せを見逃すことのないように、しっかりと目を開けて生きてくれたら、と。
 どちらが幸福なのかなんて、俺にはわからない。

 

 

「お兄ちゃん」
 ふいに声をかけられて振り返る。立っていたのは、白いワンピースを着た、長い黒髪の小さな少女だった。
「お兄ちゃん、いつもここを歩いてるね」
「……そうか?」
 俺は立ち止まった。口調はしっかりしているが、見た目は5、6歳といったところか。俺の姿が見えるということはきっと、普通の人間ではないんだろう。季節は冬に近づいているのにも関わらず彼女が着ていたのはノースリーブのワンピースで、すっかり日が落ちた暗い歩道の壁際に溶け込むような半透明のその姿に、俺は彼女が「同類」であることを確信した。
「うん、わたし、いつも見てたから。歩いていって、それからおおきなおうちの前でじっと立ち止まって、中には入らずにまたこの道を戻っていくでしょう」
「……よく見てるな」
「あのおうちは、お兄ちゃんのおうちなの?」
 関係ないだろうと突っぱねようとして、しかしにっこりと屈託なく笑う彼女にそれも馬鹿らしくなり、ああ、と頷く。
「いいなあ。お兄ちゃんのおうちは、まだ残ってるのね」
「家がないのか?」
「わたしが死んだのは、もうずうっと前のことだから」
 わたしはあっちの世界に行けなかったの、と言って、少女はまた笑った。
「おうちがあるのなら、帰ってあげたらいいのに」
「……」
 帰る、か。俺は顔を上げて、見慣れた風景をもう一度見渡した。
 おそらく俺が生まれてから死ぬまでに、一番多く通った道。何度も通ったのに、俺はいまだこの道の先にある場所に入ったことがなかった。昼といわず夜といわず、何度も行こうと思ったけれど、行くことができなくて引き返した道。
「お兄ちゃんを愛してくれたひとは、まだそこにいるんでしょう?まだ、忘れずにいてくれてるんでしょう?」
「――多分な」

 忘れてくれたらいいのにと思う。
 きっと誰でも、愛されていたかどうかなんて普段普通に生活している間に気づくことはない。愛情をやたら主張する親なんて気味が悪いし、例えそうであったっていちいちそれを確認する必要なんてない。そこにあったのは、多分、愛しいと呼べるような距離だったんだと思う。失われて初めて、それがどんなに大切だったのかに気づくような。
「早く忘れたほうが、向こうは幸せだと思わないか?」
 忘れてくれたら。もう二度と、あんな顔をせずに済むように。

 学祭の夜、宍戸が怪我をしたと聞いて病院に駆け込んできた宍戸の両親。息子の様子を確かめる青ざめたあの表情を、俺は知っていた。
 覚えがあった。あれは紛れもなく、俺が最期の瞬間に見た、俺の両親の表情だ。
 
「みんなに忘れられちゃったら、寂しいよ」
 少女は俺を見上げるようにして言った。その表情は、外見の年齢に不釣合いなほど大人びて見えた。
「わたしのことを知ってるひとは、もうみんないなくなっちゃった」
「みんな?」
「うん。『やり残したこと』、できなかったんだ。間に合わなかったの。だからもう、わたしはあっちの世界には行けないの」
「……じゃあ」
「ここにいるんだよ。ずっとずっと。誰もいなくなっても、わたしだけ、このまま」
「……」
 だから、と少女はふわりと笑った。
「お兄ちゃんは行けるといいね。お兄ちゃんを忘れずにいてくれるひとがいる間に」
「……、おい」
 そのまま少女は、暗い壁の向こうへ消えていった。

 

 

(そろそろ夕飯は終わったんだろうか)
 何度も引き返した道をまた戻りながら、帰ろうか、などと思って、すでに帰るべき家が宍戸の家になっていることに気づき、俺は苦笑した。
 宍戸の身体の中に入ったときと同じように、自分の手を目の高さまで上げて握りしめてみる。こんな頼りないものではなくて、圧倒的な確実さで物に触れることができた感覚を思い出す。指先がテニスボールに触れたとき、自分がどんなにそれを望んでいたかを改めて思い知った。
 テニスが、したくて。

 自惚れかもしれないけれど、もし俺を覚えていることで何かマイナスの感情が生まれるというのなら、みんな俺を忘れてくれたらいい。そう思う一方で、彼らが自分を覚えていることを嬉しく思うこともまた、認めなければならなかった。
 忍足。お前はまだまだ詰めが甘いんだよ。才能があるんだから、見かけ倒しの虚弱体質をいいかげん何とかして練習でもしろ、医者の息子だろうが。向日、お前は人の試合を見てる時くらい落ち着け。そんな調子だからいつまでも彼女ができねえんだよ、中身はまあまともなんだからな。樺地、お前はずっとそのままでいろ。無駄なことは喋るな、本当に必要な時にだけ、それを誰かに伝えたらいい。日吉、俺のラケットは必要でなくなったら遠慮なく捨てろ、それまで使わせてやる。誰もお前に敵わなくなるまで、強くなれ。ジロー。もう俺はお前を起こしてやれない。自分で起きろ。それから、……どうか、幸せに。お前が俺にくれた言葉を、俺は忘れていないから。

 泣きたくなっていたのはもしかしたら、自分のほうだったかもしれなかった。宍戸の感情が俺の中に直に流れ込んできて、初めはちゃんと区別がついていたそれぞれの意識の境界線が、段々曖昧になって融合していくような感じだった。ひとつに、なったような。

――お前を俺の一部だって思えばいいんだよな?
(どんな告白だよ、バーカ)
 思い出してまた、笑う。

 俺でさえ気づいていなかった願いに気づくあいつが。
 だけど肝心なところには気づかずにそんなことを言ってしまえる、どうしようもなくバカなあいつが。

 
 好きだった。

 

 

 

****

 

 

 

 ナイター用の照明が、人気のないコートを明々と照らし出していた。ストリートテニス場への階段を上りきると、誰もいないベンチにひとり座っていた人物の長い影がコート際に伸びているのが見えた。
 鳳だ。
 学校帰りに来たのだろうか。両膝の上に腕をついて、重ねた両手を口元にあてじっとコートを見ている。
 何を考えているのだろう。
 彼の座る数段上のベンチに座って、声をかけた。
「鳳」
 鳳は振り返らなかった。驚いた様子もなかった。
「跡部先輩?」
「帰らねえのか」
「あ、はい。よかった。跡部先輩に会いたいって思ってたんです」
 最近部活に来てくれないから。そう言ってコートのほうを見つめたまま、鳳は続けた。
「今日、忍足先輩と試合してたの、跡部先輩ですよね」
「……ああ」
「ああいうことできるんですね」
「そうみたいだな」
 他人事のようにそう言うと、鳳は凄い、と言ってまた黙った。
「跡部先輩」
 ややして、やはりコートを見つめたまま鳳が言った。
「何だ」
「俺、振られちゃったみたいです」
「……」
「振られちゃったっていうか……上手く言えないんですけど」
 はは、と力なく笑う。
「宍戸さんもずるいですよね。俺、知っててくれたらいいって言っただけなのに」
「それで?」
 心持ち曲がった背中に尋ねる。同学年の奴らよりもかなり背が高く(もちろん樺地は除いて、だが)、それを気にしているのか、こいつは普段少し猫背気味だ。いつも、真っ直ぐにしていろと言っていたのに。
「吹っ切った、とでも言うのか?」
「……まさか!」
 鳳は首を振った。
「好きです。ずっと好きです。届かなくても。……触れられなくても。大好きなんです」
「……」
「先輩と……一緒です……」
 そう言って、口元にあてていた両手で、顔を覆うようにする。
「……そうですよね?」

 こいつは、本当に。
 俺は呆れた。呆れるというより、羨ましかった。その必死さが。真っ直ぐさが。
 俺は観念し、大きくため息をついて、言った。

「……お前の言う通りだよ。これでいいか」

「やっと、言ってくれた……」
 鳳は安心したように言った。
「ごめんなさい。俺、駄々こねる子供みたいですよね。……カッコ悪い」
「バーカ」
 俺は少し笑った。
「そういうもんなんじゃねえのか、誰かを好きになったら」
「……」
「それでも俺は、お前をカッコ悪いとは思わねえよ」
 だから顔を上げろ。俺が言うと、鳳は顔を伏せたまま、微かに首を振った。
「跡部先輩……」
「なんだよ」
「ある人にある言葉を言われたらあっちの世界に行ける、って言いましたよね」
「……ああ」
「宍戸さん、でしょう?」
「……」
「宍戸さん、たぶんもうすぐ、それを言っちゃうと思います」
「それはねえよ」
 俺が即答すると、鳳はいいえ、と言った。
「……きっと言います。気づいてしまったんだって、宍戸さんそう言ったから」
「……」
「跡部先輩、耳を塞いでてください」
「……?」
「聞きたいかもしれないけど、聞かないでください」
 鳳の意図するところがわからず黙ったままでいると、鳳は小さく続けた。
「ここにいてください。ずっと。宍戸さんの傍に」
「鳳……」
「行かないでください」
「……」
「宍戸さんのために、ってだけじゃないです」
 ここにいてください、ともう一度鳳は言った。
「俺だって、跡部先輩が好きです」
 俯いたままで。
「だから、ここにいてください……」

 俺はゆっくり立ち上がると、黙ったまま鳳の座るベンチの傍に歩み寄った。両手で顔を覆い俯いて、両目を強く閉じたままの鳳の頭のあたりに手を伸ばし、その髪を撫でるようにしてみる。
「跡部先輩」
 鳳は目を閉じたまま、身体を起こした。
「今俺のすぐ横にいるでしょう?」
「見えるのか?」
「見えないけど、そんな感じがしました」
「そうか」
 俺は笑った。

「諦めるつもりじゃねえだろうな」
「跡部先輩……」
「そんな覚悟で好きになったわけじゃねえんだろ」
「……はい」
 鳳はやっと、顔を上げた。
「でも先輩だってそうでしょう」
「……」
「例えば。例えばいつか本当にあっちの世界に行かなきゃいけなくなったとして。生まれ変わったとしても、捜すでしょう?何度だって好きになるでしょう?」
 俺は絶対、そうです。力強く言う鳳に、俺は苦笑する。
「お前よくそんなこと素で言えるよな」
「でも、跡部先輩だってそうでしょう?」
「……そうだな」
 これから先、どうなるのかなんて見当もつかないけれど。そうなればいい、と思う。もう一度、会えるといい。こいつとも、14年を一緒に過ごした人たちとも、……あいつとも。

「じゃあ俺がいない間に、あいつにお前を好きにならせてみせろよ」
 鳳ははいともいいえとも言わずに、少しだけ笑った。
 俺はそんな鳳の髪をまた、一度だけ撫でた。



 

 

 

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