暗闇の中にぼんやりと光るブラウン管から目を離さないまま、宍戸は窓から部屋に侵入した俺に向かって遅かったな、と言った。
「まだ寝てなかったのかよ」
「明日休みだし、今夜は朝までコレ」
 画面には、顔の辺りから血を流してうろうろと歩き回っているゾンビのようなものと、逃げまどう主人公が映っている。
「目え悪くなるぞ。明かりつけろよ。これ以上取り柄無くしてどうすんだ。こんなのばっかやってるからますます馬鹿になるんだろうが」
「うるせえよ、……ってうわ!」
 びくんと身体を震わせる。宍戸のコントロールする主人公は、ふいに画面の端から現れた別のゾンビに捕まってしまった。俺は呆れながらその隣に座った。
「怖いんならやめりゃいいじゃねえか」
「怖いのがいいんだよ」
「しかもゾンビものかよ。俺に対する当てつけか」
「そうかもな。っていうかお前も手伝え。敵がどこにいんのか見つけろよ、インサイトとかいうやつで」
 あっけなく死んでしまった主人公に軽く舌打ちしてコンティニューを選択しながら、宍戸は大きくあくびをした。
「眠いんなら寝ればいいだろ。目、真っ赤だぞ」
「……」
 宍戸は何故かバツの悪そうな表情をして、コントローラーを握り直した。
「ほっとけよ。たまには眠れないお前の気持ちを味わってみようと思ったわけ!」
「はあ?」
「いいから集中!朝までにクリアするぞ」
 俺はため息をついて、真剣な表情で画面に見入っている宍戸の横顔から、低レベルの戦いが行われている仮想の世界に視線を移した。

 

 長かったような、短かったような時間が過ぎて。
 すっかり外が明るくなった頃、宍戸はコントローラーを置いて、静かに言った。
「跡部」
「……何だよ」
「お前が行かないっていうんなら、俺はそれでいい」
「……」
「だけど、行くっていうんなら俺が送ってく」
 お前が決めろ。そう言って、じっと俺の目を見てくる。少し怒ったようにも見える、真剣な表情。何度も見てきた表情。怒りだったり意地だったり、照れ隠しだったり、その時によって持つ意味は違ったけれど、多分そのどれもに、俺は惹かれた。
 ふと笑うと、鈍いこいつにしては珍しく俺の意図を察したらしく、同じように笑った。
「行こう」
 宍戸の言葉に頷いて、ゆっくりと立ち上がった。

 

 

 

****

 

 

 

 夢に出てきたのだ、と、そう言ってもらった。
「昨日、俺の夢の中にあいつが出てきて」
 伝えてほしいことがあるのだと。
「おじさんとおばさんに、どうしても言いたいことがあるって」
 忘れてほしい、その言葉ではなく。
「”やたらと人前で泣いたりするなよ”、」
 それから。
「”愛してくれてありがとう、幸せに”って」

 俺の母親は宍戸を抱きしめて、ありがとう、と言って泣いた。

 

 

 

「お前の部屋に入るの初めてだよな」
「……そうだな」
「お前んち来たのって前はあれか、部活引退したときか」
 俺が生きていたときと全く同じように片付けられた部屋を物珍しそうに眺めながら宍戸が言った。
「あの時はお前、絶対部屋に入れようとしなかったし」
「酔っぱらいどもが何するかわからなかったからな」
 親がいないのをいいことに、酒類を持ち寄って飲み会をしたのだった。忍足は見た目通りのザルでオヤジ臭く日本酒ばっかりちびちび飲んでいたし、向日は軽めのカクテルを数杯飲んだだけですっかりできあがって跳びっぱなし笑いっぱなしだった。ジローは酒を飲むと覚醒するらしく、しかもスキンシップが過多になるタイプで誰彼構わず抱きついていて、意外と飲めるらしい日吉はそれに嫌な顔をしつつ、コップ一杯も飲んでいないのに眠ってしまっていた鳳と樺地の世話を焼いていた。
「俺酔ってなかっただろ」
「さっさと寝てたけどな」
「……悪ぃかよ。泣き出したりからんだり吐いたりするよりマシだろ。てかあれだけワイン飲んで何ともないお前がおかしいんだよ」
「酒は多少飲めたほうがいいんだよ、いろいろ役立つ」
「何にだよ」
 窓際の机に近づきながら宍戸が笑う。上にはノートが開かれたままで、その傍らにボールペンが転がっていた。……ああ、俺は何か資料の整理をしていたんだったか。それほど前のことではないのに、もうずいぶん昔のことのような気がした。
 宍戸は隅に立てかけられていた写真立てを手に取った。青学に負けたあの日、学校に戻ってからレギュラー達で撮った写真だ。苦く苦しく、そして多分、自分の心の中の一番綺麗な場所に保存された、記憶。
「これ、持ってきたんだけど」
 写真立てを戻して、宍戸はジャケットのポケットからテニスボールを取り出した。
「昨日のやつ。これお前にやるわ。ここに置いといていいか?」
 昨日宍戸の身体で触れた、その懐かしい感触を思い出す。
「……ああ」
 俺が頷くと、転がってしまわないように慎重にバランスを取りながら、宍戸はそれを写真立ての隣に置いた。

 黙ったまま、宍戸はソファに座った。俺も隣に座る。それきりひとことも喋ろうとしない宍戸に俺は何を言えばいいのかわからず、同じように黙っていることしかできなかった。



――俺の家?
 行こう、と宍戸は言って、俺の前を歩き出した。
――そう。なんか、行っとかなきゃいけない気がしてさ。
――……。
――お前ひとりじゃ、行きづらいだろ?
 振り返ってにやりと笑う。思わずムッとして眉を顰めると、宍戸はまた前を向いた。
――ほら、言いたいこととか、あるだろ。俺がイタコやってやるよ。
 だから行こう、と迷いなく歩いていく宍戸の後を追うようにして、俺は何度も引き返した道の向こうにあるこの場所に、ようやく辿り着くことができたのだった。
 こうやってコイツは、俺が隠そうとしていることに、そうとは知らずに勝手に気づく。
 ……じゃあ、ちゃんとわかっているのだろうか。お前が「行こう」と言って、俺が「行く」と言ったその意味を。



「宍戸」
「跡部、」

 重なった呼びかけに、顔を見合わせる。お前が言え、と言ってやると、宍戸はしばらく迷うようにして、それから視線を逸らした。
「いや、ちょっと、聞きたいことがあってさ」
「何だよ」
「……」
「だから何なんだよ、はっきり言え」
「お前さあ、ジローに、告白されたらしいじゃん」
 俺は一瞬言葉を失った。
「……あいつに聞いたのか」
「うん」
 コイツに言うつもりはなかったのに、ジローのヤツ。俺がため息をつくと、宍戸は俺のほうに身を乗り出した。
「あいつに何て言われたんだ?」
 妙に真剣なその顔に若干面食らいながら、俺は目を閉じて記憶を辿った。
「”幸せにしたい”、って」


――跡部が嬉しいと、俺も嬉しい。
 ジローはそう言って、柔らかく笑った。
――跡部が幸せだと、俺も幸せ。だからもっともっと、跡部を幸せにしたいんだ。
 その言葉はごくごく穏やかに、自然に自分の中に入ってきて俺を満たした。特別な感情ではなくて、ただ、そんなふうに言って笑うジローが、愛おしいと思った。
――大好き。
 けれどそれは、恋、ではない。

「……プロポーズみてえだな」
 宍戸が笑う。実際、そう思った。でも馬鹿にする気はなかった。純粋に、嬉しいと思った。俺はそういうまっすぐな好意を向けられるのに、あまり慣れていなかったから。
「お前は、何て答えたんだ?」
「……何でお前にんなこと言わなきゃなんねーんだよ」
 それだけは、絶対に教えるつもりはなかった。死んでも言えるか。いや、もう死んでいるのだけど。

――好きな奴が、いる。



「ちぇ、ケチ」
 おもしろくなさそうにそう言って、宍戸はまた顔を上げた。
「会いたいって言ってたんだ、ジロー。お前に会いたいって」
「……」
「会わせてやりたいって思って。だから、昨日ジローにも来るように言っといたんだ」
 会ったってことにはならないのかもしれないけどさ。言って少し笑った宍戸に、俺は思わず言った。
「じゃあ、あいつを選んでいればよかったな」
 ただひとり、姿を見せることができる人間にジローを選んでいれば、コイツは何も知らないまま、何に煩わされることもなく俺のいない世界を生きていけたのだ。

「――それは、嫌だ」

 コイツは今、自分が何を言ったかちゃんとわかっているんだろうか。動揺を隠してその横顔を見る。
 ああ、と思った。
――宍戸さん、たぶんもうすぐ、それを言っちゃうと思います。
 こんな形でそれを聞くことになるとは思っていなかったけれど。

 俺は目を凝らすようにして、その横顔を眺めた。
 今俺のこの透明な身体がどうやって機能しているのかなんてわからないけれど、それでも偽りの網膜を通して偽りの脳に伝えられる彼の姿が、しっかり記憶に焼きつくように。
 この身体が消えてしまっても、ほんのかけらだけでもいい、俺が俺でいた意識のどこかに、一番大切なものとして残るように。



 

 

 

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